「隊長…あの作戦は決行するでありますか?」
「時が来たら合図で知らせる。心して待て」
薄暗いステージ袖、トランペット吹きである私はホルンの首席奏者にある作戦決行の指示を仰ぎます。本番前の緊張感漂う舞台裏。これからどんなに熱い演奏が繰り広げられるのか?いま戦いの火蓋が切って落とされる!?
数あるオーケストラ曲の中でも聴いて熱くなれる大オーケストラ曲、マーラーの交響曲第1番。これぞオーケストラ!といわんばかりの熱い曲です。曲の親しみやすさと演奏のしやすさからマーラーの9曲プラスアルファある交響曲のなかでももっとも親しまれ、演奏される機会の多い曲です。
まさに「巨人」という名にふさわしい大作であると同時に現場で鍛え上げられた若き指揮者の情熱が具現化された曲でもあります。マーラーという大指揮者、大作曲家としての大きな第一歩となる交響曲第1番「巨人」を今回もオーケストラ、トランペット奏者席から、7人のホルン奏者とともにご紹介しましょう。
■ 目次
「巨人」を駆逐してやる!「巨人」という標題と現場主義の男
この曲には「巨人」というタイトルがつけられています。本来このタイトルは作曲者によって削除されたものですが、現在でもこのタイトルで親しまれています。なぜ「巨人」なのか?もともと最初は交響曲ではなく交響詩として作曲されました。すでにマーラーが作り上げた様々な旋律や曲をパズルのようにつなぎ合わせ、2部からなる大規模な交響詩として作曲されたのです。その中にはさすらう若人の歌や、失恋した経験を綴った花の章など、若きマーラーのここまでの集大成が詰め込まれています。
そして、この曲を理解する上でのガイドとして当時マーラーが愛読していたジャン・パウルの長編小説「巨人」の名を冠したのでした。最初は「巨人」という名の交響詩だったのです。決してマーラーが熱狂的野球ファンだったわけではありません。
この小説も5章からなっています。若者アルバーノが世間に揉まれながら成長して行く様と思想を描いた長編小説。非常に難しい長い小説です…
この「巨人」の交響詩は、3つの楽章からなる第1部と2つの楽章からなる第2部で構成されました。
第1部「青春の日々より」
1. 現在の第1楽章「春、そして終わることなく」
2. 「花の章」
3. 現在の第2楽章「順風満帆」
第2部「人間喜劇」
4.現在の第3楽章「難破!」
5.現在の第4楽章「地獄から」
現在の1〜4楽章とはいっても現在演奏されるものとはほんの少し違っています。
作曲家である前にマーラーは演奏家です。この巨人の交響詩を演奏会で取り上げ、音として響き渡った時、現場の指揮者としてより良い演奏効果を求めさらなる改善をオーケストレーションに施していきます。
幾度の改訂により2楽章であった「花の章」は削除され、その他のオーケストレーションにも手が加えられます。そして2部形式の5楽章からなる交響詩から、オーソドックスな4楽章形式の「交響曲」へと変化したのです。
ここまで変化するともうジャン・パウルの小説とは関係のない作品となり(元々関係ありませんでしたが)かえって聴き手が混乱してしまうだろうとマーラーは「巨人」という標題も完全に駆逐、削除したのでした。けっして阪神ファンだったからではありません。
まさに現場で演奏され、余分な部分は大胆にカット、変更した結果この曲は現在の純粋な交響曲第1番として生まれ変わったのです。現場で叩き上げた指揮者職人によって作り上げられた名作であるといえます。
しかしこの初稿版※の形式、実は交響曲第1番以降の作品の基本形となります。第3楽章の舞曲風の曲を中心とした5楽章形式は第2番、5番、7番、未完の10番交響曲に、また曲全体を2部に分けるという方法も8番交響曲で使用されることとなります。
※交響詩の版を慣例として「初稿版」と呼んでいますが、現在失われた「ブダペスト稿」がこれ以前にあるため、稿としては第2稿になります。
マーラーの最初の交響曲というだけでなく、全交響曲の骨組みとなる重要な作品と言えるでしょう。
マーラー交響曲第1番「巨人」を楽章ごとに解説
大編成オーケストラの熱い盛り上がり、そして非常に演奏効果も高い人気のある曲です。この曲の演奏のポイントはとにかく「熱い演奏」です。そして4楽章のラストではとてつもないイベントが待っています!泣く子も全力で歌い出す超巨匠ロリン・マゼールによる素晴らしい演奏です。奏者が体力の限界まで全力で演奏している。それが伝わってくる演奏こそ最高の演奏です。やっぱりこの曲はこうでなくちゃ!
第1楽章(0:07~)
神秘的な弦楽器のフラジォレットから始まります。霧の中にいるような、ワーグナーのローエングリンを思わせる雰囲気です。おや?トランペット席にトランペット奏者がいません。すると舞台裏から鮮やかなトランペット部隊のファンファーレが鳴り響きます(1:38~)。
その後クラリネットがカッコウの鳴き声を模倣します(2:05)。
それが終わると4人のトランペット奏者(楽譜では3人)は第2番、3番交響曲やレスピーギのローマの松のように、足音に気をつけながら舞台に戻ってきます。動画には映っていませんが演奏席では足音と舞台の木の床がきしむ音が結構聞こえます。ゾロゾロ、ミシミシ…
続いてチェロ、コントラバスのうごめくような旋律(3:07~)。おや?この旋律はどこかで聴いたことがあるような・・・なんとなくブラームスのピアノ協奏曲第二番の1楽章の主題に似ています。
そしてそのカッコウの鳴き声が「さすらう若人の歌」の旋律へと変化します(3:43辺りから徐々に)。旋律の一部をカッコウの鳴き声にして、さすらう若人の歌へと移行するここの部分は実に見事です!(4:07)辺りでグッとテンポを落とす歌わせ方が絶妙です。さすがマゼール!
その後も悠々と楽しげに「朝の野を歩けば」が歌われるのです。
この主題がリピートで繰り返されると再び冒頭のような神秘的な弦楽器のフラジョレット(8:06~)。
その薄暗い雲が晴れたように曲調が変わりホルンによる雄々とした旋律が歌われます(11:07~)。この旋律が後でクライマックスを築きます。
トランペット隊による突然のファンファーレ(14:01)。そして再びトランペット部隊の激しいファンファーレとホルン部隊の宇宙のような呼応でクライマックス(14:52)!このファンファーレのパターンはマーラーの交響曲で頻繁に現れます。CDなどで聴いたテンポをイメージして吹くと思いっきり遅れます。グイグイと躊躇なく吹くくらいがちょうどいいです。
ホルンのパートが他の音に埋もれてしまいやすい。しかしここがホルンの聴かせどころ。
曲はグイグイと盛り上がり、大オーケストラの咆哮の嵐!そしてラストは次々とカッコウのパターンとティンパニとの素速いアンサンブル(16:30~)。次々と曲は疾走するのでここは集中しないとフライングします。
しっかり作り込まれたこの第1楽章だけでも聴き応えのある名曲です。
第2楽章(17:02~)
ホルンのダイナミックスさがまさに「巨人」を思わせるシンフォニックな舞曲です。低弦楽器の印象的な舞曲のリズムから雄大な旋律が奏されます。(18:35)ではホルンがベルアップに加えてゲシュトップ(ベルに手を突っ込む奏法)で金属的な音を出します。マーラーの交響曲ではこの音が多用されます。
中間部では穏やかなドイツ伝統舞曲レントラーになります(20:40~)。
再び舞曲が始まります(24:02~)。最後はホルンとトランペットが激しく分散和音を交互に戦わせ、荒々しいトリルでシンフォニックに終わります(25:12~)。
第3楽章(25:39~)
ジャック・カロ (1592~1635)の版画「狩人の葬送」。マーラーはこの版画から第3楽章の曲想を得た。ちなみにカロの作品はヒエロニムス・ボスやピーター・ブリューゲルのようなファンタジックな、不思議な絵が特徴。
初めてこの曲を聴くとこの楽章であれ?と思うでしょう。多くの人が子供の頃に歌った童謡「フレール・ジャック」が奏されます。ソロ楽器として使われることがまずないコントラバスのソロです。しかも暗い短調で。
皆さんは「グーチョキパーでなにつくろう」でお馴染みではないでしょうか?私は「みーんーなで、みーんーなーで、こうしんだーこうしんだー」の歌詞しか知りませんでした・・・ちなみにアメリカでは「Are You Sleeping?」、中国では「二匹の虎」が歌詞の内容になっています。
中間部は「さすらう若人の歌」の4曲目「恋人の青い瞳」の旋律が奏されます(31:05~)。マーラーが当時思いを寄せていた女性が青い瞳で、その時の失恋の経験が込められています。
再び「フレール・ジャック」(33:18~)。曲はだんだん静まりかえっていき・・・
第4楽章(37:01~)
突然のけたたましいシンバルと同時に激しいミュートを付けた金管の咆哮!特に理由のない暴力が聴衆を襲う――!!油断しているとビクゥゥッ!となります。トランペットのミュートプレイは金属的な音で演奏するのがポイント。荒れ狂う嵐のような前奏を経て、行進曲風の主題が現れます(38:13~)。
感動的な第2主題(40:50~)。
途中再び嵐のような曲想を経て、勇ましい勝利の旋律が現れます(45:35~)。この旋律が最後で高らかに歌われます。
ここで第1楽章の冒頭が現れます(48:48~)。ここでは「朝の野を歩けば」は歌われず次第に最後のクライマックスへと行進していきます。そしてトランペット隊のファンファーレが再び登場(55:26~)。勝利の旋律が堂々と歌い上げられます(56:02)。そしてここで視界が大きく広がるような雄大なコラール(56:25~)!
そしてそして!さらに曲は高みに達します。達しすぎてついにホルンが立ち上がります(56:56~)!!!マゼールはここでガッツリテンポを落として雄大に演奏します!
ここは立って演奏するように指示されている。音量の補強としてトランペットとトロンボーンが一本ずつ加えられることがある。
マーラーはここでホルンがすべての楽器の音を消し去るくらいの音量を求めました。ズバリ楽譜にホルンは立って演奏するように指示されているのです。さらにこのホルン隊に応えるようにトランペットが天に昇るような賛歌を歌い上げます。
そしてラストはグングン加速(57:25~)!さらに追い込みの三連符ファンファーレ(57:43~最後まで)!もう唇はバテバテですが気合で吹き切ります!
ラストの追い込み。もうバテバテです!
もうこれ以上音がでない…あれ?この感覚どこかで…そうだ!野球応援のブラスバンド、長引く延長戦・・気合いだけで吹きまくっている時のあの感覚だ!巨人万歳!!
そしてバスドラムの凄まじいトリルから2つのオクターブの音でビシッと締めくくります。
もう一つ非常に素晴らしい動画をご紹介。ホルンのスタンドプレーに5番トランペットも一緒に立っているのがよく見える動画です(55:14)。トロンボーンも一緒に立っている!!
クラウディオ・アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団による素晴らしい演奏。闘病生活から復帰したアバドの演奏は神がかったように素晴らしいものばかりです。動画始まってすぐにサイモン・ラトルの姿が!トランペット首席奏者は有名なラインハルト・フリードリヒです。
花の章
この「花の章」は元々第1部の第2楽章として作曲されましたが改訂されるに当たって削除されました。まれに現行版にこの「花の章」を加えて演奏されることもあります。この曲は長らく消失したと思われてきましたが第2次大戦後にマーラーの弟子の一人であった人物の自宅に所蔵されていたものが発見され、今日日の目を見ることになりました。
マーラーの直筆譜。トランペットソロによる美しい小曲です。
※この動画は中盤のオーボエソロから始まっています。
名盤紹介「現行版」
ベートーヴェンの交響曲のように非常に多くの指揮者が演奏録音しています。数あまたある名盤の中から特に素晴らしい盤をご紹介しましょう。この曲の決め手はなんといってもホルンの活躍にあります。しかしオーケストレーションのせいもあってかCDで聴くとホルンの音が埋もれてしまってハッキリと聞こえない事が多いですね。
クラウディオ・アバド/ベルリンフィル
動画の演奏からさかのぼること20年前の演奏です。指揮者の帝王と呼ばれたカラヤンから次のベルリンフィルの指揮者として選ばれたアバドが最初に演奏した曲がこの曲で、その時のライブの演奏です。これほどホルンがハッキリ聞こえてくる演奏は中々ないです。深く広く厚く、そして熱いベルリンフィルの音。素晴らしい!
ブルーノ・ワルター/コロンビア交響楽団
この曲の名盤中の名盤です。ハンブルク歌劇場時代のマーラーの部下であると同時に親交もあり、マーラーが生きていた時代の演奏を再現できる生き証人的人物です。オケがイマイチという意見もありますがとんでもない!私はそんな事は全くないと思います。4楽章のテンポが突っ走るように聞こえる所などは正に後期ロマン派の時代の演奏の特徴です。録音も非常によく、ホルンの細かい動きはもちろんその他の楽器の音も鮮明に聞こえてきます。
若杉弘/ドレスデン国立歌劇場管弦楽団
これは隠れた名盤です。ソロを吹けばメロウな音、オーケストラセクションではとてつもない力強さを発揮するホルン奏者といえばシュターツカペレドレスデンのペーター・ダム!そのダムのホルンが聴けるのがこの盤です。ホルンだけでなくハープや低音楽器などもしっかりとした味わいのある響き!残響も多く、オーケストラとしてとても理想的な音の演奏です。
レナード・バーンスタイン/アムステルダムコンセルトヘボウ
熱い演奏を聴きたければこの盤です!4楽章ラストの加速は素晴らしい演奏効果です。最後の締めの二音に楽譜にはないバスドラムを加えています。アバドの演奏もそうですが、この締め方はかっこいいです。
ゲオルク・ショルティ/シカゴ交響楽団
この曲を演奏したことのある金管楽器奏者は皆この演奏に度肝を抜かれるでしょう!完璧なアンサンブル、ラストまでバテを感じさせないパワフルなサウンド、ダレないキビキビしたテンポなのに安定した旋律の歌わせ方。完璧な演奏とはこのことです。
名盤紹介「花の章付き」と「ハンブルク初稿版」
初稿版と現行版では少々オーケストレーションなどに違いがあり、現行版で「花の章」を加えて演奏するのはマーラーの意図とは違うということになります。現在演奏される版は、この「花の章」が無い上での現行版と言えるのです。しかしこれは私の考えですが、実際に初稿版と現行版を聴き比べてみると大きな違いは無いように感じます。ここが違っていると言われて気付くくらいの違いです。なので、初稿版のように現行版の1楽章と2楽章の間に「花の章」を入れて演奏するのも、マーラーの意図には反することになりますが「アリ」と思います。だって、トランペットが活躍する曲なんだもん!
トーマス・ヘンゲルブロック/北ドイツ放送交響楽団
ハンブルク初稿版という珍しい盤です。演奏もハンブルクを拠点とする北ドイツ放送交響楽団です。作曲された当初のマーラーの意図が聴ける盤です。変更される前のオーケストレーションは少し聴いた上ではほとんど大差はありません。
ギュンター・ヴァントが指揮を振るブルックナーに定評のあるオーケストラです。このマーラーの演奏でも同様に芯のある力強い金管の音色と弦楽器と管楽器のバランスが絶妙です。
小澤征爾/ボストン交響楽団
こちらは現行版に「花の章」を加えた版。「花の章」目当てで聴くのもいいですが、なにより演奏が非常に素晴らしい。楽器のバランスやホルンなど埋もれやすい楽器の動きも明瞭に聴こえてきます。何度聴いても飽きのこない名盤です。
このスタイルでの演奏は他にもユージン・オーマンディやサイモン・ラトルなども録音しています
立て!トランペット奏者!ホルン奏者達とともに!
今回私はこの曲の演奏会にトラとして(エキストラのこと。タイガースではない)1番トランペットのアシ(音量などの補助要員)と5番トランペットとして参加しました。5番トランペットとは、実際にはトランペットのパートではなく4楽章のホルンの補助要員なのです。4楽章ラストで7人のホルン奏者がズラッと立ち上がって吹きますが、マーラーによる楽譜の指示にホルンの音量が足りない場合に備えてトランペット一本を補強要員として書き足しています。
マーラーは余程ここはホルンの大音量が欲しかったのでしょう。初演の指揮者にも手紙で、ここは出来るだけホルンを増強して、立たせて演奏してほしい。ホルン奏者がいなければトランペットで補強して、でもできればホルンが欲しい。と懇願しているくらいです。
当時目立ちたがりやだった私は、是非いっしょに立って演奏したい!オーケストラでスタンドプレイができる機会なんてまずないでしょう。ホルン隊とトランペット隊の隊長からいっしょに立って良いと許可をいただいたのです。
しかし、現在では立たないで演奏することもあるようで、実際本番でスタンドプレイをするかはその時の演奏の出来やお客さんの雰囲気で決めるとのこと。
本番直前の舞台裏。緊張感漂う中でホルン隊長と合図の打ち合わせ…そして4楽章ラスト!ホルン隊長からの目配せ!
決行ッ!!
動画の(56:56~)のように7人のホルンとトランペットの私一人がズラッと立ち上がります。立ち上がるタイミングもバッチリ揃えて。
7人のホルンと音量MAXの大オーケストラ!もう吹いている自分の音が聞こえなくなるくらいの感動の坩堝!いい体験をさせていただきました。
さすらう修行職人の歌
マーラーの交響曲第1番は若きマーラーの様々な体験が音楽として盛り込まれていますが、その中でも「さすらう若人の歌」が大きな位置を占めています。この「さすらう若人」とは正確にはマイスター(職人)になる前の修行中の見習い職人のことを指します。ドイツではマイスターになる前に様々な親方に弟子入りして修行しなければなりません。まさに指揮者としての修行に明け暮れていた若き日のマーラー自身を表しています。
そしてもう一つ、若き日のマーラーの失恋ソングも盛り込まれています。当時歌劇場で活躍していたコロラトゥーラソプラノ歌手ヨハンナ・リヒターに恋心を寄せるものの片想いに終わります。青い目の金髪のヨハンナ。その容姿はそのまま「さすらう若人の歌」の歌詞に歌われています。
「さすらう若人の歌」はまさにマーラーの若き日々の音楽武者修行の表れなのです。その若き日々の想いはさらに拡大され交響詩、交響曲へと昇華します。そしてこの後作曲される交響曲は、ワーグナーからの流れを汲む近現代の大規模なオーケストラ曲の礎となったのです。
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