北斎はヤバいです。
葛飾北斎といえばこの多数の手の平が覆いかぶさって来るような富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」で有名ですね。この波の絵、表現力も素晴らしいのですが、当時としては信じられないほど精緻な描写がなされているのです。
実際の白波はこんな人の指のようなものだろうか?漫画的に描いたのでは?と思うかもしれません。しかし!私達が海に行った時に見る、寄せてはかえす白波。これをスーパースローのカメラで撮影すると、波は本当にこのような絵になっているのです!
http://karapaia.com/archives/52184808.html
葛飾北斎は恐るべき動体視力を持っている天才でもあったということです。二百年近く前の江戸時代にスーパースローカメラと同等の動体視力を持ったヤバい浮世絵師、それが葛飾北斎だったのです。
この北斎の絵に強く惹かれたドビュッシーは1905年に完成した交響詩「海」のスコアの表紙に、この絵と同じ描写の絵を飾りました。この交響詩「海」が表現している音楽は北斎の絵が表現しているものと近いところにあるようです。
ドビュッシーの交響詩「海」は、これまでの西洋音楽とは大きく異なる手法で書かれています。もちろんフランス音楽としても完成度は高いのですが、眼に映る自然や光が動く様を音でありありと表現しているところがこれまでの音楽とは大きく違います。
そしてそれは管弦楽が持ちうる様々な表現技術を最大限に活かした重要な作品でもあります。ドビュッシーの代表作であると同時にオーケストラにとっても難曲大曲でもある交響詩「海」。今回もオーケストラトランペット席からご紹介しましょう!
■ 目次
ドビュッシーの音楽
私の知り合いのピアニストの方が以前、ドビュッシーの曲を弾くのはなんとなく怖い!と言っていました。ドビュッシーの曲は多くの反発し合う音が同時に鳴り、しかもペダルで音が伸ばされることが多いです。本当なら不協和音で只の無機質な音になるのですが、音の一つ一つが空間を広げて、世界が広がっていくような感覚になります。それはとても神秘的であり、深く美しい音です。そのピアニストは、弾いているとまるでピアノの中に広い異空間が現れその中に吸い込まれて行くような感覚になると言っていました。
なるほど!確かに。私はピアノ曲の「夢」が好きで弾いたことがあるのですが、鍵盤の向こう側に別の世界に通じる大きな穴が開いて、全く同じように私も吸い込まれていくような感覚になったのを思い出しました。
「夢」についてもっと詳しく知りたい方はこちら。ドビュッシーのピアノ曲の中でも親しみやすく素晴らしい曲です!
https://shirokuroneko.com/archives/7352.html
ドビュッシーの音楽は「印象派」と呼ばれることが多いです。当時フランスで流行した絵画の手法と同じで、写実的ではなく眼に映る印象的な光の描写を音にした音楽といえます。
もちろんドビュッシーには旋律的な曲も数多くあります。それでも使われる和音の響きは多彩で、モネやセザンヌの絵画のような柔らかい光を思わせる音が特徴です。
海と絵
その特徴は管弦楽作品である交響詩「海」でも発揮されます。様々な楽器による音の描写は、自然の光の動きがリアルに眼に浮かんでくるようです。しかも音楽的な旋律も損なわれておらず、聴きごたえのあるオーケストラ曲の傑作です。この曲は初めて聴くと、まるで現代音楽を聴いているような感じがして理解するのが難しいかもしれません。海の光景やそれから受ける「気分」を音楽にしたのではなく、眼に映る自然の動きを音で表すことに重きを置いています。
海の表面の波に反射する太陽の光がキラキラ揺らめく様、白い飛沫が空中に飛び散る瞬間の動きが楽器で色彩的に奏されています。まさに印象派の絵画と同じ手法が音によって再現されているのです。
そしてその音色はフワッとしたものではなく、メリハリのある音で、色の違いがハッキリ分かれています。この点はまさに北斎の浮世絵に共通していると思います。ドビュッシーが北斎の絵に惹かれたのではないでしょうか。
交響詩「海」管弦楽のための3つの交響的素描
巨匠クラウディオ・アバド、ルツェルンフェスティバルオーケストラ。この演奏は素晴らしい!!理想的な「海」の演奏の一つ。このドビュッシーの交響詩「海」は数あるオーケストラの曲の中でも非常に難しい曲だと思います。細やかなパッセージもそうですが、その上でフランス音楽らしい表現を聴かせなければなりません。全ての楽器が一体となった音作りが必要となります。
各楽器も非常に細やかに書かれており、様々な音の動きがハッキリと聞こえ、かつバランスよく聞こえるようにする必要があります。不思議な聞きなれない和音の響きも楽譜通りにバランスよく演奏された時、立体的に別世界が目の前に広がる、それがドビュッシーの音楽の世界感を醸し出すポイントです。
印象派の絵画のボンヤリとした感じではなく、ドビュッシーの音楽の場合フワフワした音楽で終わらないように音色のメリハリを出すことが大切です。
オーケストラ席で自分が演奏すると、これもまたピアノ曲のように別世界が目の前に現れるような感覚になります。しかも多くの楽器が鳴っていて、四方八方に世界が広がってゆくような自然、森羅万象を感じます。
繊細であり、力強い響きも求められる曲ですが、更なる特徴はハープや打楽器が活躍する曲でもあります。光や波しぶきの動く様子は特にハープが重要な役割をはたします。
曲は3つの楽章からなっています。
「海の夜明けから真昼まで」
まるで夜明け前の静かな海面を思わせる低弦、ハープから曲はスタートします。
イングリッシュホルンとミュートトランペットによる不思議な音階の旋律(00:26~)。近代のフランス音楽によく見られる3-2連符の旋律はこのあとも様々に展開されていきます。
どこか日本風のちょっとしたクライマックスを経て朝日が昇ります。ゆったり漂う波に太陽の光がキラキラと眼に映る、そのような光景が音によって繰り広げられます(1:26~)。ドビュッシー独特の世界です。
深い海の色を思わせる低弦楽器と木管楽器の旋律(1:31~)。ハープのパッセージが水面から眩しく照り返す光を思わせます。見事な描写です。
フルートによる遠くの水平線に広がる海の印象(2:21~)。音の空間を広げていくハープの伴奏。白い波しぶきが跳ねて迫ってくるような弦楽器(3:44~)。そして吹き去る風のようなトランペット(3:55~)。
ここで情景が変わります(4:37~)。堂々とした曲調、優雅な雰囲気が漂います。
時折雲に隠れる太陽や物憂げな光を経てクライマックスへ。ここでは金管楽器が雄大な旋律を奏でますが、対旋律や伴奏が見事な海の動きを再現しています。
まず、ハープによる水面のきらめき(7:31~)。クライマックスは金管の旋律に木管楽器が三連符の対旋律を奏します(7:51~)。ここがバランスよく聞こえると音楽が立体的になります。
さらにフレーズの合間にハープがグリッサンドで弾ける波を(7:56~)、そして次のドラが波の轟音を再現しているようです(8:05~)。そして音が膨らんだかと思うと消え入るように一楽章を締めくくります。
この2つの旋律が両方きちんと聞こえると、より立体的な海を感じられる(7:51~)。動画の演奏は完璧に聞こえる。
「波の戯れ」(8:32~)
前楽章よりさらに情景描写の緻密さが深まります。波の描写が特徴的な楽章です。ドビュッシーの手腕が遺憾なく発揮されます。
トランペットの非常に重要なソロ(11:48)。弾ける波のような描写(12:36~)。これを機に曲は華やかさを増していきます。そして次第に静かに・・・
グロッケン(鉄琴)からオーボエ、ミュートトランペットによってゆったりとアルペジオが奏されます(14:25~)。そしてハープによる見事なアルペジオ(14:42)!!消えることのない静かな波の音が聞こえてくるような描写です。非常に小さな音でシンバルが余韻を奏でている所も絶品です!
「風と海との対話」(15:21~)
遠くまで響き渡るようなミュートトランペットソロ(16:11~)。物憂げな太陽の光(19:39~)。そして吹き抜ける風のようなトランペット伴奏にコルネットの難しいパッセージ(21:18~)。
そして金管楽器の雄大なコラール(22:33)。一楽章最初の3-2連符のフレーズがここで盛大に現れます。こここそ荒れる波間に盛大に見える富士山、葛飾北斎の絵を彷彿とさせます。
そしてフランス音楽らしく最後は派手にテンポが加速してゆきます(23:01~)。トランペットの速いタンギングを伴って華やかに盛り上がり、ティンパニと弦楽器の音一発で最後はビシッとキメます。
名盤
とくに一楽章最後のクライマックスのバランス、二楽章の締めのハープの音にこだわって様々な演奏を聴き比べました。その中でも立体的にドビュッシーの音楽が聞こえてくる名盤をご紹介です。ダニエレ・ガッティ/フランス国立管弦楽団
これは素晴らしい演奏!音のバランスや強弱の表現が他にはない程繊細です。ゆったりとしたテンポで、飽きのこない名盤です。トランペットのクレシェンド、デクレシェンドの付け方が絶妙!一楽章最後のクライマックスは逸品です。
ダニエル・バレンボイム/パリ管弦楽団
ピアニストのバレンボイムは指揮も大変素晴らしい演奏を聴かせてくれます。スタンダードな演奏で、それでいて楽器の1つ1つが鮮明に聞こえてくる演奏です。各楽器の表現も細やかで何度聴いても飽きのこない盤です。
ピエール・ブーレーズ
ニュー・フィルハーモニア(旧盤)クリーブランド管弦楽団(新盤)
名盤として名高い演奏です。新旧両方とも素晴らしい演奏です。特に旧盤は二楽章のハープや打楽器の音が鮮明に聞こえてきます。新盤では三楽章の表現やクリーブランドの金管アンサンブルが聴きどころです。
楽譜
現在インターネットで著作権の切れたクラシック音楽の楽譜、スコアを無料でダウンロードできます。素晴らしい時代です。ぜひ楽譜を見ながら聴くことをオススメします。- IMSLP(楽譜リンク)
本記事はこの楽譜を用いて作成しました。1909年にデュラン社から出版されたパブリックドメインの楽譜です。
また、インターネットで楽譜を見るのもいいのですが、ポケットスコアがあるととても便利です。曲の詳しい解説もあり、より深くこの曲を知ることができます。また大きさも手頃な大きさなので、調べたいと思ったらすぐに手に持って調べられるのもいい点です。
三楽章最後のほうにドビュッシーが一度書いたものの、カットしたフレーズがあります。指揮者のエルネスト・アンセルメがこのカットしたフレーズを再び蘇らせ演奏させたことにより一時期はそれがスタンダードな演奏になりました。
現在ではドビュッシーの意思を反映してカットして演奏されることが多いです。この辺の詳しい解説もこのポケットスコアに書かれています。
ピアノ連弾版もあります。かなり難しいようです。
ドビュッシーと海と波乱
ドビュッシーは幼い頃船乗りになるのが夢でした。それだけに海のわずかな表情も余すことなく音にする事ができたのでしょう。この交響詩「海」はドビュッシーの代表作というだけでなく個性的な和音や音階などを駆使し、これまでのオーケストラの表現の幅をグッと広げるキッカケになった傑作といえるでしょう。
眼に見える現象を音にする、これは現代音楽にもつながっていく流れでもありました。
この交響詩「海」の作曲に取り掛かっていた頃の逸話として、ドビュッシー自身はスキャンダルの真っ只中にいました。生徒の母親と不倫関係になり、それを知ったドビュッシーの妻がピストル自殺を図るという事態にまで発展。もちろんドビュッシーは世間から強烈なバッシングを受けます。
その中で嵐をやり過ごすかのように作曲に集中、ほとぼりが冷めた頃にこの曲を発表したのでした。波や嵐の、寄せては返すような表現も当時の波乱な私生活が反映されていたのかもしれません。
そんな波乱の私生活であっても、完成した音楽は音を通じて眼に見える海の「絵」を私達に立体的に伝えてくれるのです。