アイルランドの女優ハリエット・スミスソン(1800~1854年)

皆さんは好きな芸能人やアイドルはいますか?最近では「握手権」なるものがあって、それをゲットするために同じCDを何枚も買うそうですね。一体いくら位お小遣いを使っているのでしょう。

アイドルも女優さんも、舞台やテレビで演じる人物と実際の人間は違うものですが、恋い焦がれる気持ちが強くなりすぎると、よからぬ事件を起こしたりもします。人は恋に溺れてしまうと、どうしても冷静な判断ができなくなってしまうものですね。でも盲目的に思いつめてはいけません。舞台上の彼女達、彼達はあくまでも舞台の上での人間なのですから・・・

■ 目次

第九のわずか6年後にオーケストラは一気に進化した。

ところが約200年前に事件まではいかなかったものの、アイドルにハマりすぎ、かなり盛大に、ド派手に、もはや芸術的にやっちゃった人がいるようです。

ベートーヴェンが交響曲第9番を初演して、新たな交響曲の形態を世に誕生させてからわずか約6年後、さらにオーケストラの編成を拡大し、楽器の演奏形態や管弦楽の音そのものにストーリー性を加えた交響曲の大作が誕生しました。オーケストレーションなどもベートーヴェンのドイツ的な響きを引き継いだ形式ですが、作曲したのはフランス人のベルリオーズです。

当時バッハやベートーヴェンなどのドイツ音楽は、ロッシーニなどのオペラに人気に押され、現在ほど多くの人に知られていませんでした。熱狂的なベートーヴェン崇拝者であったベルリオーズは指揮者としても有名で、当時まだフランスでもあまり知られていなかったベートーヴェンのオーケストラ曲を数多く指揮して自国に広めました。

激しい片思いの大暴露

「幻想交響曲」は少年心も少女心もくすぐるような題名ですね。そして、作曲者自らの「激しい片思いと失恋」を音楽という形に表した曲であることも健康的な若者向けの曲のようにも思えます。(実際は片想いの人とは後に成就しますが…)古今東西たくさんの失恋歌がありますね。しかしその出来上がった曲はとても失恋ソングとは言えない、とんでもない曲でした。

恋が叶わず絶望したある芸術家が、アヘンを飲んで自殺しようとしましたが、失敗し半死の状態で幻想をみる、といったちょっとアブナイ人の自伝的なもので、その幻想たるや善良な少年少女達は顔を背け、某機関からお叱りを受けるレベルの、かなりイッちゃった内容だったのです。

曲の物語性をより明確にするために、ベルリオーズは所々にその「愛する人」を表すテーマを置き、「愛する人」が出現する様子が、聴き手にわかりやすく臨場感のあるものにしています。(下記動画の5:46や21:49など)


フランクフルト放送交響楽団による演奏です。これは2楽章にコルネットが入るバージョンです。


1楽章は「夢、情熱」と題された、恋が叶わない心の動きが表現されます。

2楽章は「舞踏会」。そこで芸術家は愛する人を見かけます。(21:50)ちなみにこの楽章で作曲者は可能であればハープを4台(!!)指定しています。

3楽章は「野の風景」。静かな野に、イングリッシュホルンの歌が聞こえてきます。その呼びかけに答えるように遠くからまた、オーボエの歌が聞こえてきます。心が落ち着いた所で愛する人の幻を見て、心をかき乱されます。

遠くからティンパニによるリアルな雷鳴が聞こえてきます。作曲者はティンパニの音にこだわり、4台を4人で演奏するよう指示していたり(当時まだ音程を変えるペダルがなかった)マレットの硬さや種類も指定しています。

4楽章は「断頭台への行進」。ここからがこの曲の盛り上がっていく所です。なんとここで夢の中で愛する人を殺してしまい、死刑を宣告されます。処刑方法はギロチンによる断頭。ラストのギロチンが落ちてきて首が転がり観客が歓声をあげる描写が聴きどころです。(46:38)

5楽章は「サバトの夜の夢」。ここから曲はサイケデリックになって行きます。大編成のオーケストレーションに加えさらに、作曲者が指定した、教会などで使われる本物の大きな鐘(のど自慢で使われるチューブラーベルでなく)も使われます。用意するのが難しい場合は、複数のピアノで(!!)演奏するように指示されています。

多くの場合やむを得ずチューブラーベルで代用されることが多いですが、後述するように作曲者が希望した重低音の鐘の音でなく、明るめの音がします。本物の鐘のズシンと来る感じは遠く及びませんが、その明るい音もまたヒステリックな恐怖感を引き出していて、ひとつの魅力となっています。

また、これはCDで聴いてもコンサートで客席から聴いてもわかりにくいのですが、オーケストラ席で演奏しているとこの曲のオーケストレーションの技術にゾッとするほど感銘する箇所があります。(この立体感を是非お伝えしたいのですが・・・)

怒りの日の主題が現れトランペットが入ってくるあたりから、低音の主題に乗ってトランペットが切れ切れに演奏する箇所があります。ここはオーケストラのトランペット席に座って演奏していると、「怒りの日」の主題が次第に左右前後(ホルンやトロンボーンやチューバ)から切れ切れに聞こえてきて、鐘の音も相まってサイケデリックな感覚になってきます。(51:34~52:54にかけて)

CDなどで聴くと「怒りの日」の主題が金管合奏で聞えるだけで、あの不思議な楽器の距離感を録音できているCDや動画に未だにめぐり合えません。もちろんここだけでなく、5楽章全体にわたって、オーケストレーションにハッとする箇所は多数あります。楽器をドラマチックに、色彩的に演出する作曲技術も、指揮者として現場で活躍していたベルリオーズの手腕であるといえます。

この“音の距離感”もベルリオーズの大きな特徴であり、他の「テ・デウム」、「レクイエム」有名な「ローマの謝肉祭」等でも大いに発揮されています。

この立体的なサイケデリック感を文章でうまく伝えられないのが残念です・・・

5楽章はもはやサイケデリック。

新しい奏法と楽器と大管弦楽

チューバが登場するまえの楽器、オフィクレイド

この曲の、特に5楽章でベルリオーズはオーケストレーションに様々な工夫を凝らしています。大規模な管弦楽編成だけでなく、楽器もこれまでにない斬新な使用をしています。

5楽章の「怒りの日」のテーマは現在ではチューバで演奏されますが、当時まだチューバはなく、最低音の金管楽器として当時軍楽隊で使われていたオフィクレイドという楽器が使われていました。外見やキー等はバリトンサックスに似ていますが音色は吹奏楽などで活躍するユーフォニアムに近い音です。ちなみにこのオフィクレイドをもとにサックスが発明されたそうです。

怒りの日。動画ではオフィクレイドではなくチューバで演奏されています。

また狂気的な「愛する人」をE♭クラリネットが巧みに表現します。(48:43)

そして特徴的なのが鐘です。演奏によって鐘の音色は千差万別ですが、作曲者は非常に低い音が出せる、教会などにある本物の鐘で演奏することを指示しています。

以前私がこの曲を演奏した時に使われた鐘は、直径1m高さ50cmくらいの黒光りする大きな鐘二つ。専用の大きな台車でないと運べず、見た目も圧巻ですが、その音たるやお尻からズシンと来るような重低音だったのをよく覚えています。叩くハンマーもでかい!!演奏会の打上げでは、打楽器奏者の人達からこの鐘の手配の苦労話をとくと聞かされました^^;

またヴァイオリンのコルレーニョという弓の木の部分で弦を打楽器のように叩かせる奏法も、より奇怪な情景を描き出しています。これはホルストの「惑星」の火星やショパンのピアノ協奏曲2番などでも見られる特殊な奏法です。弦楽器の人にとって弦と弓に負担がかかるため歓迎されない奏法です。

これも以前の話ですが、ショスタコーヴィッチの交響曲7番を演奏したときに、4楽章のリハーサルで、弦楽器の人達が非常に嫌がっていたのを覚えています。ある箇所で強烈に強いコルレーニョがあるので^^;

そしてもうひとつ大きな特徴として、ようやく開発された金管楽器のバルブシステムです。4楽章からは、「金管楽器が旋律を吹きまくる」という、バロック時代以来の縦横無尽の活躍をします。バルブシステムのおかげでやっと金管楽器が倍音に頼らないで音階が吹けるようになったのです!バンザイ!!(何百年かかったんだ??)

ここで大きく変貌した金管楽器群が今の時代の大編成のオーケストラのはしりになったと言えます。

アーバンさん。出番ですよ。

ベルリオーズと時代を同じくして、金管楽器の世界に大きな貢献をしたトランペット、コルネット奏者がいます。アーバンの金管楽器教則本として有名なジャン・ロラン・バティスト・アーバンです。ベルリオーズは面白い事にこの幻想交響曲の2楽章で、このアーバンの為にコルネットのためのソロを追加した版(1844年版)も書いています。1855年の改訂版では省かれてしまいますが・・・アーバンの教則本にも出てきそうな、綺麗なフレーズが特徴です。

上の動画はまさにアーバンのコルネットソロが入ったバージョンです。(2楽章16:30から)この幻想交響曲は、当時次々と進化した楽器をふんだんに取り入れた革新的な曲です。

教則本で有名なアーバン。コルネットの名手。

名盤紹介

現代のオーケストラの技術は非常に良く、どの演奏も素晴らしい名盤ばかりです。その中で特に印象に残ったもの、特に2楽章はコルネット付バージョンであるということが優先で、独断と偏見であげていきます。

ガーディナー/オルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク

CD
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DVD
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2楽章のコルネットはよく聞こえてきます。幻想交響曲の本来の音を最も再現しているのがこの盤だと思います。古楽器を使用しているのはもちろん、オーケストラ団員の舞台上の並び方や奏法も当時のものを再現し、演奏している会場までも当時の様子に近いホールが選ばれました。

そもそもこのオーケストラは、元々古典派からロマン派に移る19世紀前半、特にベルリオーズとベートーベンの曲を当時の演奏スタイルで再現、演奏することを意図して結成されたオケなのです。そのせいか残響はかなり少なく「シンフォニックな響き」が物足りないかもしれません。しかしながらこれがベルリオーズの意図した演奏に最も近いでしょう。

低音楽器にオフィクレイドだけでなく、セルパンという古楽器も使われています。この楽器は中世の時代あたりから使われているとても古い楽器です。あるカトリックの葬儀の中で、この楽器の伴奏による「怒りの日」の主題が歌われていたのを聞いたベルリオーズがそのまま5楽章で取り入れました。

DVDでその姿を見ることができます。

セルパン。これでも金管楽器です!

ベルナルト・ハイティンク/ウィーンフィル

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ここで挙げた盤の中では最もコルネットがはっきり聞こえて良いです。全体の演奏も録音も大変すばらしい演奏です。録音はウィーンゾフィエンザール、元プールだったところの上に舞台を作った所です。

多分多くの人は時間がないときは省略して2,4,5楽章だけを聴くと思いますが、聴き流されがちな3楽章も綺麗な演奏なので是非聴いてほしいです。そして4,5楽章もすばらしく、鐘の音は高すぎず、低すぎず、小さすぎず充分な恐怖感をかもし出しています。

コリン・デイビス/アムステルダムコンセルトヘボウ



コルネットの音はあまり目立たずオーケストラに溶け込んでいます。アムステルダムコンセントヘボウの音色が素晴らしい名盤です。4楽章のオーケストラのバランス等、現代オーケストラの良さが最も良く出ている盤だと思います。ちなみに、違う曲になりますがコリンデイビスの指揮した「ファウストの劫罰」全曲も素晴らしく、その中のハンガリー行進曲がとくに素晴らしい演奏です。

オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団

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2楽章のコルネットは良く聞こえてきます。コルネット付きの演奏としては古い方の録音です。ブルーノワルターと同じくグスタフマーラーに師事した名指揮者で、フィルハーモニア管弦楽団との数々の録音はどれも素晴らしいものです。ブルーノワルターと違い、かなり個性的な演奏をする指揮者です。走ったりしないテンポで、ドッシリとした演奏が特徴です。

5楽章の鐘の音は作曲者の指示では、低い音で、となっていますが多くの盤ではチューブラーベル等を使った明るい高い音が使われています。なんとなくN○Kの、のど自慢を思わせますが、確かに暗い怒りの日の主題に明るい鐘の音が同時に鳴らされると、狂気感が増します。

低い鐘の音での録音は数少なく、このクレンペラー盤は数少ない低い音の鐘を使用している盤です。

サイモン・ラトル/ベルリンフィル



コルネットはオケに溶け込む感じ。相変わらず意表をつく演奏で、4楽章と5楽章が変わった演奏です。金管楽器は派手な激しい音を鳴らさず強弱の変化にこだわった演奏です。かなり物足りなく感じるかもしれませんがコントラバスの動きなどがクッキリ聞こえてきて、不思議と何度も聴きたくなる演奏です。とにかく意表をつかれる演奏です。

バリバリの派手なオーケストラを聴きたい人には物足りないかもしれませんが、スルメのように聴けば聴くほど、何度も聴きたくなる不思議な名盤です。

チョン・ミュンフン/パリ・バスティーユ管弦楽団



コルネットはハッキリと聞こえてきます。全体的にオーソドックスな演奏です。4楽章のマーチの歌わせ方がテヌート気味で他の演奏とは違う所です。

クラウディオ・アバド/シカゴ交響楽団

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コルネットはオケに溶け込んでいるように聞こえます。こちらも全体的にはオーソドックスな演奏ですが、シカゴ交響楽団の金管楽器がやはり素晴らしいのと5楽章の鐘に広島の平和の鐘を使用しています。こちらは作曲者が求めた低い暗い音がします。広島の平和の鐘は見たことはありませんが、この音は間違いなくデカイ鐘に違いありません^^



・ここからは2楽章にコルネットがありませんがオーケストラの精度が素晴らしい演奏です。

デュトワ/モントリオール交響楽団

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音が特に綺麗で4楽章の金管楽器群が素晴らしいです。これも何度聴いても飽きない演奏です。

エルネスト・アンセルメ/スイス・ロマンド管弦楽団



ティンパニの音が大変すばらしく、所々で指揮者の意図する表現がわかります。5楽章の鐘の音は、小さい音で遠くから低い音で響いてくる感じです。

陳 佐湟 /中国交響楽団

http://diskunion.net/clubh/ct/detail/CL-1006909185

これは意外に名盤です。恐らく国内で入手するのは難しいと思いますが、音色や曲の運び等大変素晴らしいです。ヨーロッパやアメリカのオーケストラと充分遜色ない名盤だと思います。録音も非常に良いです。見かけたらぜひ聴いてみてほしい一枚アルヨ。

カラヤン/ベルリンフィル

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オーケストラの技術と分厚さもさることながら、5楽章の鐘の音が重低音です。

ショルティ/シカゴ交響楽団

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やはりシカゴ交響楽団の金管楽器が素晴らしく、4、5楽章がキビキビした演奏です。もっともシカゴらしいカロリー消費の激しい演奏で、熱さを求めるならこれが一番です。


そのほかにもシャルル・ミンシュや小澤征爾など、まだまだたくさん紹介したい盤はあります。

ベートーヴェンの後継者

幻想交響曲は、かなりベートーヴェンの影響を受けていると思われます。6番「田園」の標題音楽に(3楽章に田園風景と雷も)、5番のように一つのテーマ(愛する人の主題)を各楽章に展開する点、9番のように最終楽章で今までのテーマを回帰させて(ここではE♭クラリネットで)、その後新たにテーマを誕生させ展開発展させていく点(歓喜の歌ではなく怒りの日で)、かなり先輩巨匠を意識しているといえます。

実際にベルリオーズはフランス人でありながらも、ベートーヴェンを含むドイツの音楽を広めようとしていた活動家を支持し、先にあげたようにフランス国内の指揮活動でベートーヴェンの作品を数多く取り上げ、普及させることに尽力しました。

名著とゴーストライター

ベルリオーズは音楽だけでなく多くの著作も残しています。特に有名なのは「管弦楽法」で後のチャイコフスキーやマーラー、リムスキーコルサコフなど近代のオーケストラ曲の作曲手法に大きな影響を残しました。近現代の大編成オーケストラの源流はベルリオーズにあるといってもいいと思います。

またベルリオーズは偽名で「キリストの幼時」という曲を発表し好評を得ました。後に自分の作品であると発表しましたが、それでも人々に受け入れられたようです。んん?!なんか最近似たようなことがあったような気がします。これも夢の中の幻想でしょう^^

お巡りさん!この人です!

ベルリオーズは大変な、ある意味行き過ぎた情熱家でもあったようです。ある時、婚約者に結婚を拒まれた時、その母娘を殺害しようと女中に変装して向かいましたが、途中で女装セットをなくしてしまい正気に戻って取りやめたとか。今の時代なら完全にストーカ規制法で逮捕です!それにしても女装したベルリオーズ。どんな姿だったのでしょう…

この曲のテーマになった、愛する人とはハリエット・スミスソンというスコットランドの女優で、(冒頭の絵)幻想交響曲の初演の際には自分の事の曲とは知らずに聴きに来ていました。のちにベルリオーズはスミスソンと念願叶い結婚しますが、結局は破綻してしまいます。

結局ベルリオーズが愛していたのは、現実の彼女ではなく舞台の上の彼女であって、彼女の幻想であったという事です。


The ophicleide picture By Hidekazu Okayama (PROJECT EUPHONIUM (Hidekazu Okayama)) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons.

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