1822年、パリのコンセルヴァトワールの図書館に彼の姿はありました。医大生なのに大学をサボり、図書館に籠もって楽譜を複写したり楽曲を分析したりする彼は、ルイ・エクトル・ベルリオーズ。彼がのちに阿片を吸いながら揺らぐ意識の中で書いた『幻想交響曲』は、いまだに世界中の多くの楽団で演奏される大人気交響曲の一つです。
今回はもとオーケストラ団員、トランペット担当の私が、ベルリオーズ作曲の『幻想交響曲』について解説していきたいと思います。
ベルリオーズ『幻想交響曲』
ルイ・エクトル・ベルリオーズ
ベルリオーズは1803年フランスのイゼール県に生まれました。イゼール県はジュラ山脈とイゼール川に囲まれた人口120万人ほどの県です。ベルリオーズの父は開業医。ベルリオーズの父はベルリオーズを医者にしようとベルリオーズの小さい時から熱心に教育をしました。ベルリオーズは6歳の頃町の教会付属の神学校に入学。しかし僅か2年でその神学校が廃校に。ベルリオーズは8歳から18歳までなんと父の手によって教育を受けました。ベルリオーズの父は大変な勉強家で自宅には様々なジャンルの本が所蔵されていたと言われています。
父親がベルリオーズに教えたのはラテン語・文学・歴史・地理・数学・音楽の基礎など。パリの医科大学へ入学するまでの10年間、ベルリオーズは自宅で父とともに学習を続けたのです。
10年間の自宅学習を終えたベルリオーズは、大学入学試験に見事合格。イゼール県を出てパリの医科大学へ通うようになります。しかし父が医者なのにベルリオーズは大学の解剖学の授業を受けた瞬間「医者は嫌だ」と怖気付きます。そうして入学早々大学への足は遠のくばかり。冒頭で紹介したように図書館に通って音楽の勉強に熱中するのです。
その後ベルリオーズは20歳で本格的に音楽を学ぶためにパリ音楽院に入学します。両親は強く反対したそうですが、ベルリオーズの音楽への情熱は誰にも止められなかったのですね。
それからベルリオーズは数々の作曲や編曲に挑戦し、27歳の時に自分の失恋経験を元に『幻想交響曲』を作曲します。
ベルリオーズの音楽の歩み
ベルリオーズが音楽に興味を持ったのは14歳の時。父の部屋で見つけたフラジオレットがきっかけでした。フラジオレットとはフルートファミリーに属する木管楽器。柔らかい音色が特徴で2オクターブもの音を出すことができます。それからベルリオーズはフラジオレットの練習に没頭します。その後は父親にフルートやギターを買ってもらい音楽への興味を次第に高めていったのです。
作曲に関しても独学で学びました。フランスの作曲家であるシャルル・シモン・カテルの『和製概論』という本を父の書斎から見つけて、自力で理解できるまで努力を重ねたのです。
18歳で医科大学に入学するも、医学の道には興味が持てず。パリのオペラ座へ通い始めます。19歳になると音楽を習い始め『アラブの馬』『カノン』などを作曲します。
20歳でパリ音楽院に入学すると、オペラ座管弦楽団の指揮者であるジャン=フランソワ・ル・スュールに作曲とオペラを学びます。21歳では『荘厳ミサ曲』を作曲しますが、失敗に終わってしまいました。
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ベルリオーズは、25歳の時に聴いたベートーベンの交響曲第3番『英雄』と交響曲第5番『運命』に大きな感銘を受けます。ここから交響曲への大きな啓示を受け、自身の音楽の道への意志がより強く固まっていったと言われています。
それから2年経った1830年。ベルリオーズは『幻想交響曲』を僅か4ヶ月で書き上げます。ベルリオーズをここまで掻き立てたものは一体何だったのでしょうか?実はその答えにこの『幻想交響曲』の面白さがあります。――その答えは「大失恋」と「阿片」です。
ベルリオーズ『幻想交響曲』とその奇抜なストーリー
幻想交響曲の作曲に取り掛かる前、ベルリオーズはとある女優に恋をしていました。その女優はアイルランドの女優ハリエット・スミッソン。ベルリオーズは彼女に猛烈な恋心を抱き、彼女に会うために劇場に通いつめますが、ハリエット・スミッソンの方は全くベルリオーズに興味なし。ベルリオーズはあっけなく失恋をしてしまうのです。
彼女に振られたベルリオーズは次第にハリエット・スミッソンへの憎しみを抑えきれなくなっていきます。愛と憎しみは紙一重だと言いますが、ベルリオーズはまさに彼女に対して逆恨みとも取れるような憎悪の感情を抱いていったのです。
そうしてその憎しみの感情をパワーに作られたのがこの幻想交響曲。原題は『ある芸術家の生涯の出来事 5部の幻想的交響曲』ですが、「ある芸術家」というのはベルリオーズのことですね。幻想交響曲はベルリオーズの失恋体験を告白することを意図した交響曲だったのです。
さらに面白いのはベルリオーズが阿片を吸った状態で作曲した、と自身が示唆した記録があること。失恋の痛みから逃れるように阿片を吸い、朦朧とする意識の中で彼女への恋心と憎しみを煮えたぎらせては音にぶつけ、激しく爆発させてはペンを走らせ、そんな風に作曲された作品なのです。
第1楽章「夢・情熱」
恋い焦がれるハリエット・スミッソンを表す旋律が現れます。この楽章だけでなく全楽章を通じて「固定楽想」と呼ばれるこのメロディーが形を変えながら何度も現れます。
第2楽章「舞踏会」
ワルツのリズムが聴く人の心を躍らせる一曲。発表当時は1番人気のあった楽曲だと言われています。
第3楽章「野の風景」
静かなベルリオーズの恋心が現れているかのような曲です。平和に終わるかと思いきや、終盤には不穏な空気を漂わせるティンパニの遠雷の音が鳴り響きます。
第4楽章「断頭台への行進」
ベルリオーズはハリエット・スミッソンへの憎しみから、彼女を殺してしまう夢を見ます。阿片を飲んだ朦朧とした夢です。彼女を殺してしまったベルリオーズは、死刑判決によって首を落とされてしまいます。金管楽器が奏でるマーチは、まるで自身の処刑を見守る群衆の野次馬のヤジのようにも聞こえますね。
第5楽章「魔女の夜宴への夢」
ベルリオーズの死後、彼の葬儀には多くの死の世界の魔物が訪れます。もちろんその魔物の中には、亡霊となったハリエット・スミッソンも。2本のチューバが「怒りの日」のテーマを奏で、魔物の踊りが最高潮になったとき、この楽章も幕を閉じます。
演奏者目線で『幻想交響曲』を聴いてみよう
ここでは私がオケ団員として幻想交響曲を演奏した時のエピソードなどをお話しします。
実はベルリオーズはオーケストラの常識を大胆にひっくり返してしまう作曲家として知られています。例えば今回の幻想交響曲でもスコアに記されているティンパニの数はまさかの4台!通常は1台、多くても2台なのでかなり常識破りですね。
0:35〜始まる第1楽章。弦楽器が切ない恋のメロディーを奏でますが、ところどころ金管楽器とティンパニが、狂気のエッセンスをプラスします。(11:30辺りからじわじわと弦楽器が盛り上がり、11:45から金管楽器とティンパニのエッセンスが入ります)ベルリオーズの幻想の中に溺れる様子が上手く表現されています。
2楽章は15:06から。この楽曲ではハープが使われています。ハープは基本的にシャープやフラットのつかない「ドレミファソラシ」の7つの音しか出ないのですが、オーケストラの中で使われているグランドハープはペダルが付いているため、ペダルで音を上げたり下げたりすることで、いろんな種類の音が出せるのです。実は練習中に少し触らせてもらったのですが、私がやるとブツンブツン、という音になってしまい、優しいハープの音を出すだけで難しいのだと実感しました。
21:30から始まる第3楽章では、オーボエが羊飼いの奏でる音色を表現します。私はあまり出番がなかったのですが36:01から始まるティンパニの雷の音は大好きでした。トランペットはティンパニの前に座っているのですが、一度練習中にティンパニ奏者の手が滑ってティンパニのバチが飛んできたことがありました。とてもびっくりしましたが今では楽しい思い出です。
そして38:30からは私の大好きな第4楽章が始まります。ファゴットとホルンの冒頭の不安げな旋律。ティンパニの押し寄せるような連打。出番の前から気持ちが高まるような気分でした。
個人的に39:12から始まるファゴットのソロが好きで、その間はいつも後ろからファゴットの姿を見つめていました。弦楽器の奏でるメロディーの陰で奏でられるファゴットのメロディー。弦のメロディーが処刑をひと目見ようと集まった群衆のざわめきで、ファゴットのソロは断頭台に連れて行かれるベルリオーズの気持ちを表しているのかも…なんて一人で妄想していました。
そして吹いていて最高に気持ち良い40:08から始まる金管楽器のファンファーレ。この部分は本当に大好きで個人練習の時もいつも一人で吹いていました。一人で吹いていると、同じ部屋で練習しているトロンボーンやチューバ奏者が、私の音に合わせて吹いてくれて、いつの間にか合奏になっている、ということも多々ありました。
43:15から始まる第5楽章で一番好きなのは46:33から始まるチューバのソロ。チューバは金管楽器の中でもマイナーな縁の下の力持ち的な存在なのですが、この力強いソロは私もお気に入りでした。先ほど紹介した「怒りの日」の旋律ですね。
まとめ
失恋した痛みと憎しみを幻想交響曲に込めたベルリオーズですが、なんとこの幻想交響曲を完成させた数年後ハリエット・スミッソンと結婚を果たします。演奏した当時子どもだった私は曲の出来た経緯を指揮者から聞いたとき「何だかドロドロしているなあ」なんてのんびり感じていました。
あなたもぜひ愛と狂気にまみれた幻想交響曲を大音量で聴いて見てください。
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