シューベルトと言えばどの作品を思い出しますか?
中学の音楽の鑑賞で習った「魔王」でしょうか?結婚式で聴く機会の多い「アヴェ・マリア」でしょうか?
「魔王」は昔から変わらず現在も中学の音楽の鑑賞教材として使われています。多分、ドイツ語バージョンと日本語バージョンで聞き比べをしたと思います。
「お父さん、お父さん!」の部分がいつまでも頭に残り、真似をする人が続出するという現象が起きましたよね!
シューベルトは歌曲をたくさん作った作曲家ということは記憶に残っていると思いますが、その他は意外と一般には知られていません。
シューベルトについては今回を含めて3回に分けて書いていこうと思います。まずはシューベルトがどんな人なのかをメインにして書いていきたいと思います。
シューベルトってどんな人?
シューベルトのフルネームはフランツ・ペーター・シューベルトと言います。彼はオーストリア出身の作曲家です。
「音楽の都」と呼ばれているウィーンで活動していた作曲家は多くいますが、オーストリア出身の作曲家は意外と少ないです。よく知られている有名な作曲家ではハイドン、モーツァルト、ツェルニーくらいでしょうか。
シューベルトは1797年にウィーン近郊のリヒテンタールで生まれました。彼は14人兄弟の12番目として生まれましたが、多くの兄弟が亡くなっており、成人出来たのは5人だけでした。(兄3人、妹1人)
シューベルトの父、テオドールは教師で学校の経営もしていたようです。テオドールは農家の息子として生まれ、音楽が好きだったため田舎から「音楽の都」ウィーンへ出てきました。
テオドールはチェロとピアノを演奏することができましたが、音楽家としてやっていける程の腕はありませんでした。
しかし音楽は大好きだったため息子たちにヴァイオリンやピアノなどを教え、家族で合奏を楽しんでいたようです。
テオドールは他の兄弟とは比べものにならない音楽の才能をシューベルトに感じていました。そこで、リヒテンタールの教会聖歌隊指揮者のホルツァーのもとで声楽を学ばせることにしました。
ホルツァーはシューベルトの才能に驚き、熱心に指導しました。
教え始めて2年が過ぎた頃、シューベルトの才能をもっと伸ばすために、コンビクトの合唱団員を目指してはどうかとテオドールに話します。
コンビクトとは国立の学校(現ウィーン国立音楽大学)のことで、合唱団員となれれば寮に入ることができ、奨学金も得ることができたのです。
テオドールは「息子は教師にするつもりで音楽家にはさせないこと」、「息子がホルツァーのことをとても慕っていること」、「コンビクトは身分の高い家柄の子供が行くところのため心配」ということを伝え、引き続き教えてやって欲しいと頼みました。
しかし、ホルツァーはテオドールにきっと受かるから受けさせてみなさいと助言します。将来教師になるとしてもコンビクトでの勉強は役立つとテオドールを後押しします。
この言葉を聞きテオドールは息子に試験を受けさせることを決意します。
合唱団員になる試験をシューベルトは難なくクリアし、11歳になった彼はコンビクトに行くことになります。
シューベルトはこの頃から本格的に歌曲の作曲をしており、モーツァルトのライバルと言われていたサリエリに指導を受けています。
コンビクトの中でもシューベルトの才能は飛び抜けており、彼の才能を目の当たりにすると身分の違いなどどうでもよくなったのか、嫌がらせを受けることなく、多くの友人を得ました。
シューベルトは他の生徒たちと違い、貧しく5線譜さえ買うことができませんでした。それを見た友人は5線譜をシューベルトに買って渡し、作曲を続けさせました。
彼は友人に助けられながら16歳になるまでコンビクトで勉強をしました。その後は兵役を逃れるため、父の学校で教師として働くことになりました。
テオドールは音楽を職業とするのは相当の才能がないと難しいと理解していたので、息子たちには自分と同じく教師になることを望んでいました。
それは教師になれば食べるためのお金は必ず稼げるという親心からくるものでした。
シューベルトはしばらく教師として働きましたが教師という仕事に興味がなく、向いていなかったため、次第に暗い顔をするようになっていきました。
彼を心配したテオドールは1年間休養させ、好きなことをさせることにしました。リフレッシュすればまた教師として頑張れるだろうと考えたのです。
シューベルトはウィーンを離れ、エステルハージ家のお嬢様にピアノを教えながら、作曲をして過ごしました。
約束の1年が経ちウィーンに戻ったシューベルトに再び教師の職に戻るようテオドールは言いますが、彼は戻るとは言いませんでした。
怒ったテオドールはシューベルトを家から追い出してしまいます。
家を追い出されてしまったシューベルトをコンビクトの頃の友人たちが心配し、自分の家へ住まわせてくれ、援助をしてくれました。彼は友人たちの家を転々としながらも、作曲を続けました。
このような状況になっても彼が作曲を続けられたのは援助してくれた友人たちがいてくれたからです。
シューベルトは作曲することだけに興味があって、後のことにはあまり関心がなかったのかもしれません。
彼は自分の作曲した楽譜をあまり大切にはしておらず紛失してしまったり、作品にどんなに安い値段を出版社がつけても怒ったりすることはなかったようなのです。お金にも全く執着がなかったみたいです。
作曲に必要なピアノにもあまり興味がなかったのか、シューベルトが所有するピアノは生涯でたったの1台だったそうです。(そのピアノの行方はわからなくなっているそうです。)
ピアノを持つ友人の家を転々とすることが多かったので、あまり必要性を感じなかったのかもしれませんが…
シューベルトを家に住まわせてくれたり、出版社に楽譜を持ち込んでくれたり、作曲活動をさせてやって欲しいと父テオドールを説得してくれたり、自分のことを理解してくれている友人に恵まれ、常に音楽活動を支えてもらいました。
まだまだこれからという時期に彼は腸チフスにかかり、1828年に31歳という若さでこの世を去りました。友人たちのおかげもあり、少しずつ売れている途中でした。
彼にはとても素晴らしい才能があり、人柄も良かったのだと思います。そうでないと多くの人がこんなにも支えてくれるはずがありません。
周りで支えてくれる友人がいなければシューベルトはどうなっていたのでしょう…
もしかすると多くの曲が出版されず、世に出ないままだったかもしれません。
シューベルトは古典派?ロマン派?
シューベルトはロマン派の音楽家と習ったと思います。決して間違いではないのですが、完全にロマン派とも言えない気がします。
古典派というのは18世紀中頃~19世紀初頭までのことです。もう少し細かく年代で分けると、1750年~1830年前後と考えられています。ロマン派はその後なので1830年前後~ということになります。
シューベルトは1797年に生まれ、1828年に亡くなったと先程書きましたね!
時代に当てはめてみるとロマン派というよりは古典派に当てはまっていますよね。
古典派の代表的な作曲家であるベートーヴェンは活躍した時期や作風が完全に古典派にぴったり当てはまるのですが、シューベルトの場合、短命だったこともあり、時代としては古典派に当てはまってしまうのです。
ベートーヴェンは(1770~1827)57歳で亡くなっていますが、シューベルト(1797~1828)の生涯と重ね合わせてみると、シューベルトの方がかなり年下なのに、ベートーヴェンの亡くなった1年後に亡くなっているのです。
このようにシューベルトは時代からみると古典派になるのですが、作品や作風から考えると完全に古典派とも言えないんです。
ピアノ作品の「即興曲」や「楽興の時」は性格的小品(ロマン派を代表する作品の形)になるので、ロマン派の特徴を持っています。
しかし彼は古典派の代表的な曲である「ソナタ」を21曲も書いており、他のロマン派の作曲家よりも明らかに多く作曲しています。(作曲家がどのくらいピアノソナタを書いたかについてはベートーヴェンのピアノソナタ全曲難易度順で書いています。)
シューベルトがもっと長生きしていたら完全にロマン派の作曲家だったと思いますが、このような理由から古典派後期とロマン派の先駆けという2つの面を持っていると私は思います。
歌曲ばかり書いた作曲家じゃない!
シューベルトは31歳という短い生涯でしたが、作品数はとても多く、歌曲は600曲も書いています。
歌曲にはとても素敵な作品が多く、ドイツリートを確立したという業績もあり、シューベルトは「歌曲の王」と呼ばれるようになったのだと思います。
シューベルトのように作曲家によっては特定の分野の作品がとても人気になるという場合があります。
彼の他にもショパンはピアノの作品ばかりを書いており、有名な作品もピアノ曲ですよね。
確かにピアノの作品がほとんどなのですが、ショパンはピアノの曲だけを書いたわけではありません。作品数はとても少ないですが、実は歌曲やチェロの曲なども書いているんですよ。
シューベルトは特に歌曲を多く書いていますが、歌曲以外にも多くの作品を残しています。彼の場合はショパンと違い、様々な分野の作品を数多く作曲しています。
ピアノ曲(ソロ、連弾)、室内楽曲(弦楽四重奏、ピアノ五重奏など)、交響曲、声楽曲は歌曲以外にも宗教曲や合唱曲など、とても31歳で亡くなったとは思えない程の膨大な数の作品を残しています。
全作品を合わせると1000曲くらいになると言われています。(未完、紛失したものなども合わせて)
シューベルトがここまで多くの作品を残せたのは、常に音楽が湧き上がってきていたからなのでしょう。
モーツァルトもメロディーが常に頭の中に浮かんできていたようなので、似たようなところがあるのかもしれません。
湧き上がってくる音楽を急いで書き留めるようにして作曲した2人ですが、少し違う点があります。それはシューベルトには未完成の曲が多く存在するのです。
なぜ多いのかはよくわかりませんが、メロディーが次から次へと思い浮かんでしまうため、いろんな曲を同時進行で進めていったのが原因の1つなのではないかと私は思います。
他にも依頼者がいて作曲したのか、そうでないのか、によっても違うのかもしれません。作曲して欲しいという依頼があって、作曲するのであれば未完というわけにはいきませんからね。
歌曲ほどは知られていないかもしれませんが、歌曲以外で有名な曲はピアノ作品や交響曲、ピアノ五重奏曲「ます」などでしょうか。
シューベルトは歌曲だけが評価されているわけではないんです!
シューベルトの主要ピアノ作品とその難易度とは
シューベルトのピアノ作品(ソロ)で主要なものは「即興曲」、「楽興の時」、「幻想曲さすらいの人」、「ピアノソナタ」です。
この他にも多くの作品がありますが、あまり弾かれる機会はないと思います。
ソロ曲だけでなく連弾曲も多く作曲しています。
シューベルトの連弾曲はSecondがただの伴奏ではなく、Primoとバランス良く旋律を弾けるように考えられており、優れた作品が多くあります。「軍隊行進曲」は一般的にも知られている曲ですよね。
シューベルトの主要なソロ曲の難易度をおおまかに見ていきましょう。(「楽興の時」と「即興曲」の詳しい難易度順については次回書く予定です。)
「楽興の時」→中級レベル
「即興曲」→中級レベル~上級レベル
「ピアノソナタ」→中級レベル~上級レベル
「幻想曲さすらいの人」→上級レベル
主要なソロ曲のおおまかな難易度はこのような感じです。
シューベルトのピアノ作品を初めて弾く場合には「楽興の時」か「即興曲」の中から選ぶのをおすすめします。
どちらも1つの曲集の中に複数の曲が入っているので、その中でも難易度の低いものをまずは弾いてみて、シューベルトの作品に触れてみると良いと思います。
「幻想曲さすらいの人」に関しては作曲したシューベルト自身が難しすぎて弾くことが出来ず、「こんな曲は悪魔にでも弾かせてしまえ」と言って弾くのを途中でやめたというエピソードが残っています。
自分でも弾けない曲を作曲してしまうとは…
このエピソードでわかることは必ずしもピアノを弾きながら作曲をしていたわけではなかったということです。
ピアノで弾きながら作曲していたのであれば、弾きにくいのは作曲した時点でわかることで、普通なら自分が弾きやすいように変更するのではないでしょうか。
これには友人の家を転々としていたということがもしかすると関係あるのかもしれません。
彼は作曲で思い悩むということは多分ほとんどなく(他の作曲家に比べると確実に少なかったと思います)、書くだけで作品が完成したのでしょう。天才ですね!!
シューベルトがどんな人だったのか、わかって頂けたでしょうか?今回はシューベルトについてをメインにして書きましたが、次回は「楽興の時」について書いていきたいと思います。
まとめ
◆シューベルトはオーストリア出身の作曲家◆試験に合格し、コンビクト(現ウィーン国立音楽大学)の合唱団員となった
◆モーツァルトのライバルだったサリエリに指導してもらった
◆コンビクトで出会った友人たちに支えられ音楽活動を続けた
◆シューベルトの作品は古典派後期とロマン派の先駆けという2つの面を持っている
◆31歳という短い生涯だったが全作品数は1000曲くらい(未完、紛失したものも合わせて)
◆「楽興の時」→中級レベル
◆「即興曲」→中級レベル~上級レベル
◆「ピアノソナタ」→中級レベル~上級レベル
◆「幻想曲さすらいの人」→上級レベル
シューベルト「ピアノ主要作品」の難易度について!の記事一覧
- シューベルトは歌曲だけじゃない!ピアノ主要作品の難易度について! 2017年10月1日 ←閲覧中の記事
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