ドビュッシーのきらめく感性の世界に、心奪われて戻れなくなってしまったピアノ弾きさんはたくさんいることでしょう。ドビュッシーの光と影の世界は、次元を超えた世界の美しさに溢れています。一度はまってしまうと、その後ずっと本能的に訴えてくる、不思議なフランス音楽の世界。

今回は、フランス人ドビュッシーから見た、イタリアの小さなカプリ島の印象をまとめたキラッキラと輝く作品「アナカプリの丘」を取り上げます。フランス音楽大好き、という人も、旅行が好きという人も、ぜひ味わってもらいたい異国情緒あふれるパラレルワールド・ピアノ曲のご紹介!

また、ピアノ弾きさん共通の一番の恐怖、暗譜が崩れてしまう仕組みに迫りながら、いかに本番でイメージを実現するかということも考えてみます。

初めて出会う音

舞台は、地中海に浮かぶイタリアの小さな島、カプリ島。
ここは「青の洞窟」で有名な、バカンスの島です。

ドビュッシーは、この周囲17キロの小さな島の、アナカプリ地区の丘からの眺めを、曲にまとめました。青い空と、藍色の海。眩しい地中海の陽射しはフランス内陸の太陽とはまるで別の太陽から降り注いでいるようです。



感嘆符と疑問符が混じったような、キラ☆フワな音色に、若かったわたしは夢中になりました。

今までに知らない光や、景色や、聴こえてくる音を、ドビュッシーも、弾いている私たちも、ほんとうに「今までに知らない!」という音色で表しているみたいです!

閃きの世界に近づくには、どうすればいいのでしょう?わたしは、気になる部分を何度も何度も弾き、偶然生まれた音色から気づいたことを、どんどん付箋に書き込んで貼っていきました。浮かんではすぐに消えてしまう取るに足らないような思いつきや、矛盾する言葉でも、できるだけたくさんのイメージをかき集めていきました。

すると、最初の10小節はこんな感じの付箋で埋まったんですね。

① 海辺に朝日が差し込んでくる
② 黒みがかった藍色の水平線に光が広がっていく
③ 光の矢。射し込んでくる音。
④ 鐘かも?
⑤ カモメかも?
⑥ ペダル踏んでもコロコロした音
⑦ ふわふわきらきら
⑧ 全体に広がる音の波
⑨ 朝日が強い陽射しへ、光景がくっきりと浮かび上がる。
⑩ 「?」の音から徐々に「!!」の音色に。

出だしは、地平線から太陽が昇るときの徐々に視界が明るくなっていく様子をイメージして、音を重ねていこう、と練習を始めました。でも、同じ色の朝焼けは2日と続かないように、自分にとってはこの出だしの音がなぜだか毎日同じように聴こえないのです。同じように弾いているのに。

弾き方の何が違うのか自分でもわからないのですが、最初の2音くらい弾いたところでその日のピアノの調子もわかるので、そのあとの音の重ね方を調整していくことにしました。

本番までにいろいろ、もうほんとうにいろいろな朝焼けを描いていると、ピアノの調子と自分の耳の調子の折衷したところで、「今日の朝焼け」を展開できるようになっていきます。

それは、美しさ自己ベストの朝焼けというより、今日の朝焼けには違いない、出会ったばかりの音なのでした。
わたしはそうやって自分の理想と折り合いをつけていきました。


崩壊する音のまとまり!

7小節目、わたしの付箋だと「朝日が強い陽射しへ、光景がくっきりと浮かび上がる」のところは「?」から徐々に「!!」に近づけるように、響きを調整していくことに決めました。最初はアルペジオの指示をゆっくり目にばらして、徐々に、和音として聴こえるくらい時間差を短くしていきます。

こういう部分、たくさんたくさん練習して、だんだん音をドレミで捉えなくなってきて、響きで感じられるようになり、景色や色まで見えるようになって…ああ、ここまで来られたら、最後は「何も考えず感じるままに弾こう!」と思ったのが、わたしにとって誤算だったのでした!

いつもとちがう本番のピアノで「閃き」を再現しようとしたとき、まさかの「音のゲシュタルト崩壊」がおきたのですー!


ゲシュタルト崩壊って…?
「全体性のあるまとまりから、全体性が失われて、個々がバラバラに認識され、本来の意味をなくすこと。」
たとえば、長い階段を延々と登っていたとき、急に登り方がわからなくなって足が進まなくなった、とか、ある漢字をじーっと見つめていたら、線を組み合わせた記号や絵のように見えてきてしまった、などの現象を、心理学の言葉で「ゲシュタルト崩壊」と言うのですって。


曲の冒頭であれほど、理想の響きと違って聴こえても「今日の朝焼け」に調整していこうと、理性的に始まったのに、曲を漕ぎ出してから「思ってた響きじゃない!」と、感じてしまったら最後。
それが引き金となり、

この音でよかったんだっけ?
この響きでいいんだっけ!?
あれ、!つぎの音はどうするんだっけー!!

っていう最悪の事態が起こってしまったんです!
あああ、こわい!!

メロディー&伴奏で覚えた、骨格のしっかりした音楽とはまた違った意味で、再現に危険が伴ったのですね。
楽譜を離れた新鮮さで弾きたい!と思ったからこそなんですけれどね…。

そのあとわたしの付箋だと「!!」となって、(なんだか今日は変だけど飛んでいけっ!)っと最後のアルペジオを飛ばした後…行ったっきり…次の音が一瞬出てこなかったのです!!


ああ、冷や汗が…。

こういう響き重視の曲は、ひとつひとつの響きでシャッターを切るように、この音は群青、エメラルド、白金!とか空、カモメの声、光!みたいに、映像と音の響きのイメージを組み合わせて弾いたりすると、曲の感覚と一体になったみたいで、本当にものすごく楽しいんです。

でも、たぶんそれだけだと、ちょっとしたきっかけでバラバラになりやすいということだったのですね。

崩壊をくいとめる

漢字の話に戻ると、たとえば「借」という字はゲシュタルト崩壊しやすい漢字なんだそうです。

見れば見るほど、変な記号のように思えることがあるらしいのです。なぜこんなことが起きるのか、また防ぐ方法もはっきり解明されていないそうです。

でももしかしたら1年に1回くらい「昔、人に借りたもの…だから、にんべんに、むかしを組み合わせて【借】の字になっている、と覚えよう」というように、つながりを持たせながら覚えなおすと、認知の崩壊を防げるような気がしませんか?

【借】という字をいくら頻繁に書いていても、読んでいても、いや当たり前に使えば使うほど、ふっと「なにこれ、変な形、知らない字みたい」と、分からなくなっちゃうときがあるらしいですから、普段とは別の方法で確認しなおす必要があるということじゃないでしょうか。

たとえば、あの時のわたしは、思っていた音色とちょっと違うものを聴いて、いつもは色と響きで捉えていたものを、一つ一つの音で意識してしまうきっかけをつくってしまいました。本番でもイメージを大事に演奏しようとするなら、ちょっとやそっとで全体が失われないように、連続性を失わないように、印象を映画のようにつないでおくといいのかもしれません。

たとえば「群青からエメラルド、白金と変わっていく水平線の連続した様子から、カモメにさーっと朝日が当たって、カモメの声が光の帯を連れてくる」というような一連のストーリーを描き、最初の一筋の光が、ちょっと理想と違う光り方をしても、ちゃんと「今日だけの朝」がやってこられるように!


ちゃんと練習したのに、どうして本番で分からなくなっちゃうんだろう?暗譜が飛ぶのは練習不足だからだ、あがり症で未熟だからだ、と自分を責める悩みは、ピアノを弾く人にとって一番つらい宿命のようなものですよね。

でも、分かったような気がするのです。それは当たり前に起きることなんだって。
暗譜が飛ぶ一歩手前の「ゲシュタルト崩壊」の状態は、脳の特性なんですから!

少しでもそれを食い止めるために、いろんな記憶のつながりを作って、自分の中の緻密な計算を用意しておくことは必要なんですね。
それは、どんな曲に対しても言えることなんだと思うのです。

丘の上にいるということは。

さあ、カプリ島の全貌が目の前に開けてきました。
(音源動画0:27あたりから)
朝から元気な人々。
船の汽笛も聞こえます。
海鳥の鳴く声も響きます。

でもそれは、丘の上にうっすらと聴こえてくることなので、「遠くから聴こえてくる」というフィルターがかかっているのかもしれないのです。



(「軽く、そして遠くから」3小節目の指示)

カプリ島はモンテソラーロ山などのかなり高い丘陵地がある島地形です。

丘の上のドビュッシーとカプリの街や海との間には距離があるので、徐々にはっきりとしてくる景色の描写は臨場感たっぷりでありながら、わたしたちは心象風景のように変換することもできるのではないでしょうか。

そしてこの曲をずっと流れている不思議な響きが、波間に見え隠れする心の景色のように、心地よく思えてくるのです。


どこにもないナポリ音楽

「Avec la liberte d’une chanson pupulaire (民謡の自由さを持って)」の流れをくんだ後、
ナポリ風の自由な民俗舞踊的な中間部が始まります。
(音源動画1:20あたりから)


フランス人から見て、イタリアの音楽をこんなふうに思った、ということを、日本人のわたしが弾いちゃう!って、凄いことじゃないですか?ちなみに場所や人種どころか、時も越えちゃっているわけです。わたしはこういうところにぞくぞくと愉悦を感じてしまいます!

旅行費もかけず、休暇も取らず、凄いところまで旅に出られちゃうのです。
そしてここは誰が弾いても、本当のナポリ音楽ではなく、一種のパラレルワールドから聴こえるような音楽で…もうほんものの旅に引けを取らない、トリップです…!!

目が眩む

カモメたちの喧騒のせいなのか、強すぎる陽射しに目が眩んでいるのか、くるくると視点が揺れ動き、心地よく酔いが回っていきます。(音源動画2:08~)

クライマックスでは目の前のフィルターが取り払われたかのように、視点が崖を急降下。
(音源動画2:28~)
今まで丘の上にいたわたしたちの心は海に潜ったかのよう、そして、キラキラ輝くような水しぶき!
(というイメージが付箋に書いてある)
たった5秒くらいの間に、ジェットコースター並みの高低差を感じる場面です。


ハイ、ここも、新鮮さを楽しみすぎると、水しぶきのあとの音楽が戻ってこない危険があるので、連続性を失わないようにしないといけないですね。

cedez(だんだん遅く、に似た意味)のところからの高音「ラ♯、レ♯、シ、ソ♯↑ ↓シ、レ♯」、 場面が切り変わる境目のところを音名でインプット。(いろんな角度から覚えなおす大事な計算)

最後は、ドビュッシーは風に包まれたのでしょうか、わたしの付箋メモでいうと「旋回する響きの中で光とともに視線も空へ!」のシーンなのですが、わたしは大事なオーディションで、曲の最後の最後の音を見事にはずしたのでした!


新鮮さに没頭しすぎた…!
わあああ!どうすればいいんだろうっ!ペダルに乗っちゃってる、この知らない響き!
もう~その日だけの新鮮すぎるラストなのでした…!!

まとめ

・音から受ける直感をたくさん書きだして、集めてみよう!
・同じように弾いても、今日しか出会えない音が実際にある。
・ドレミを離れた響きを堪能できると、最高に楽しいけれど、それだけだと再現性に脆さがある。
・いろんな方向から、音を覚えなおしてみよう。(どんな曲想の作品にも言える。)
・瞬間的な印象を連続化させて、ちょっとのきっかけでバラバラにならないような映画的な覚え方もしよう。
・音名で覚えておくのは、なんといってもやはり非常に固い目印になる。



自分自身への緻密な心理計算は、旅の交通手段のようなもの。必要な手順です。

楽しいトリップで迷子にならないよう、

目印や道しるべを、ちゃんと覚えて、

さあ、旅に出かけよう!



「アナカプリの丘」の無料楽譜
  • IMSLP(楽譜リンク
    本記事はこの楽譜を用いて作成しました。1910年にデュラン社から出版された楽譜です。ドビュッシー「前奏曲第1巻」全12曲が収録されており、第5曲「アナカプリの丘」は20ページ目からになります。

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