かのF.リストのライバルピアニストとされたS.タールベルク作曲の、ロッシーニの「モーゼ」の主題による演奏会用大幻想曲です。
この曲は「象牙の決闘」という有名な逸話で知られています。タールベルクがピアニストとしてパリで名声を得始めたとき、リストがそれに対抗したことで、どちらが優れたピアニストかを決める場が設けられました。
タールベルクはこの「モーゼ幻想曲」を弾き、対してリストは「ニオベ幻想曲」を演奏しました。当時は、流行しているオペラのアリアをパラフレーズすることで、自分の技巧を披露する習慣があったのです。
決闘の結果、タールベルクは「世界一のピアニスト」、リストは「唯一無二の存在」とされました。個人的にこの2曲を演奏した感触からしますと、間違いなくリストの勝利に終わっただろうと推測しています。
タールベルクの書法には、左右の親指でアリア旋律を弾き、左手は伴奏、右手はアルペジオをはじめとした華麗なパッセージで装飾するという特徴があります。その結果、彼は「3本目の手を持つピアニスト」とも称されたのです。
リストとの差を挙げるならば、主題を変容させる技術ということに尽きます。タールベルクは15分を超える幻想曲であっても、主題を巧みに変容させたり労作するということがほぼありません。原型の周りをあの手この手で装飾しているに過ぎないのです。
それは芸術作品としての価値は低いかも知れませんが、構造が極めて単純なだけに非常に聴きやすいという利点もあるように思います。常に予定調和的に展開していくというのは一見退屈ですが、たまにはこういった作品を見直すことも有意義ではないかと考えています。
演奏法
主題が常に一貫して奏されているため、指示がない箇所は同じテンポで演奏するのが定石だと考えられます。しかし、あまりにも変化が乏しく退屈してしまう危険があるため、多少自由に演奏しても構わないと思います。流行に乗って書かれたこのような作品は、あまり厳密なルールに縛られる必要はありません。序奏部の重い旋律は特に難しくありませんが、音がやや揃いにくいのでよく聴いて練習しなければなりません。低音は高音に比べて音が太く、不揃いになりやすいのです。
(動画02:03-)
Pesanteの部分(動画 02:20-)は非常に重く弾き、和音の解決を明確に示して弾きましょう。
(動画02:37-)
このような箇所はひたすら前に進んで演奏します。
(動画03:06-)
非常にシンプルなメロディーと伴奏です。メロディーに長い音が多いので、左手に推進力を持たせることで間延びしないようにしましょう。16分音符のところにritenuteがありますが、テンポに縛られずに自由に弾いていいと考えて良いと思います。
(動画03:42-)
右手の付点2分音符がメロディーです。先述した通りの、タールベルクがよく用いた手法です。伴奏や装飾の方が難しいので、メロディーの流れを損なわないようにしましょう。
(動画04:34-)
少し音楽に動きが出てきます。メロディーが進んで行きやすいように、左手を速めのテンポで流暢に弾きましょう。
(動画04:57-)
和音の塊でパッセージが作られているのが特徴的です(動画 05:06-)。基本的にメロディーは最高音にあると考えて良いので、ppの中でもよく際立つようにしましょう。ノーペダルで軽やかに弾くのがオススメです。
(動画05:58-)
一見すると技巧的なようですが、とても手に馴染みやすい単純な装飾パッセージです。この辺りまで弾いてくると、聴衆も中音域の太い音にメロディーがあるという感覚を覚えてくる(耳にタコができてくる)頃合いなので、パッセージの技巧性を誇示するように弾いても面白いかも知れません。
(動画08:04-)
ここは少し意見が分かれそうです。普通ならばソプラノを際立たせれば綺麗なのですが、左手に楔形アクセントがつけられている上に、やはりタールベルクの書法からいえば内声をメインに扱うのが正しいのでしょう。
確かに、試してみると、ソプラノを際立たせれば美しいですが、内声を出す方が立体的に響くのです。
(動画13:13-)
この作品に初めて目を通した時、一番苦戦しそうだと感じたのがこの箇所です(動画 13:17-)。こういう連打の扱い方はほかの作品でほぼ見かけることがないため、演奏者にとって新たなテクニックだといえます。
ここから急にテンポを上げる演奏が多いように思いますが、特に何の指示もない上に、この後にさらに細かい装飾的パッセージが待ち構えているので、あまり速く弾かない方が賢明です。
ポイントとしては、音をよく揃えることと、ミスに対して神経質になりすぎないことです。半音ずつ進んでいくので、それらの大まかなラインを大切に弾きましょう。
(動画14:13-)
ここから曲の終わりまで、長い長いアルペジオの海が広がっています。一見難しくないようですが、かなりの曲者です。例えばショパンのエチュードop.25-12「大洋」のように、理路整然と音符が並んでいれば弾きやすいのですが、この作品では音数の帳尻合わせとしか思えない箇所があまりに多いのです。
そのため、動きと音数はずっと同じなのに、最高音と最低音だけが違っていたりと、とにかく覚えにくくて手になじまないのです。音楽的内容でいえば、単純な和音構成で書かれているので、暗譜が多少怪しくても問題にならないように思います。
まとめ
いわゆるクラシックジャンルの作品に取り組む際は、作曲家の意図や楽譜に書かれた内容を精査されることが求められます。それらの作品は偉大な「芸術」と言えるからです。しかし、この曲のように、流行の歌をあの手この手でパラフレーズして演奏しただけのものに関しては芸術と分けて考えて良いのではないでしょうか。我々が当然のように演奏し、鑑賞してきた作品群はいずれも最高の音楽家たちに生み出されたものです。彼らがなぜ「芸術的」とされるのかは、同時期に活躍し、消えていった作曲家の作品を通すことでより浮き彫りになるのではないかと思います。
難易度的には、決闘で演奏されたにしては易しいと言えるのではないでしょうか。ツェルニー50番程度のレベルで十分に演奏可能だと言えます。
- IMSLP(楽譜リンク)
本記事はこの楽譜を用いて作成しました。1875年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版されたパブリックドメインの楽譜です。