良い脚本とはどんなものでしょうか?
なかなか映画の脚本を見る機会はありませんよね。

私は、これまで役者として数々の舞台に立ってきましたので、文字だけで書かれた脚本が演劇として立ち上がる瞬間には居合わせているのですが、映画に関しては、例えば原作の小説などがあれば、どんな風に映画化されたのか、その違いから想像してみるしかありません。

一体どこから手を付けたら良いのか。脚本を書くなんて途方もない作業のように感じられますが、一つだけ確かなことは、演劇も映画も、「あらすじ」では語れないということです。

新旧洋邦の2作品に触れながら、ただの物語が映画になる瞬間を見ていきたいと思います!

■ 目次

物語から映画へ

映画になると聞くと、幼い頃はただ映像化することだと思っていましたが、実際のセットやロケーションを設定して、内容を演じたものをカメラで撮ったからといって映画にはならないんですよね。それは文字で読めば良いものを映像に記録してみただけ。

照明に始まり、人物の演技はもちろん、衣装や配置、動き、カメラワークなどなど、映像として見た時にどうかというのが全てなわけで、どこまで脚本に書かれているのかは分かりませんが、その脚本が示す「物語」から「はみ出した」部分こそが、ただの記録映像に「映画」としての息吹を与えるのです。

するとそこには、物語の展開からも「はみ出した」、常識を超えていく瞬間がきっと訪れるはずなんです。

物語を超える瞬間!


海外映画で、マイケル・マン監督の『コラテラル』(2004米)はご存知でしょうか?
ジェイミー・フォックス演じる主人公のタクシー運転手が、トム・クルーズ演じる殺し屋に脅されて、その手伝いをさせられるお話です。

夢を語るばかりで実際には何も行動を起こしてこなかった主人公が、人生最大の不運に巻き込まれたことで、考える前にまず行動する姿勢を、殺し屋から学んでいく成長物語です。

次の標的までの移動手段として殺人の片棒を担がされるわけですが、最終的に自分の知り合い(ヒロイン)が標的のリストに入っていることを知ったために、殺し屋を出し抜き、ヒロインを連れて逃走し、地下鉄のホームに逃げ込みます。

物語も大詰め。

発車寸前で電車に飛び乗ってほっとしたのも束の間、、、殺し屋が電車の外側にしがみついているのに気付いた瞬間!
主人公たちは、驚いたり、絶望したりする表情を全く見せないまま、反射的にダッ! と走り出します。

私は、大笑いしてしまいました。リアリティーを重視する脚本や監督なら、絶対NGであろう展開に、「物語を超えた!」と思わずガッツポーズをしてしまった程です。

中盤、それまで真面目な運転手だった主人公が、とうとう一線を超えてアクセルを全開にする爽快なシーンもありますが、これはあくまでも本人の意思によるもの。

ラストで「行動できる男」に成長した彼は、「生き延びたい」という物語を超えていて、何と言いますか、「追われる」から「逃げる」のです。

物語から出発したはずなのに、映画の中で動き回るうちに「逃げること」だけが身体に馴染んでしまって、もはやスポーツのように走りだした瞬間に、物語のリアリティーなど吹き飛ばして本物の人間の身体が浮かび上がってきたのです。

そして、最終決戦を終えた彼らは無事に電車を降りると、美しい夜明けの街へ歩いていくのでした。

役者の身体


それではもう一つ。私の好きな古い日本映画で、成瀬巳喜男 監督の『めし』(1951日本)という作品をご紹介します。原作者の急逝により未完のまま終わってしまった物語をベースにしているため、ラストの方は映画オリジナルとなっています。

この映画を家で観ていた時に、風邪で寝ていた家族が隣で音声だけ聞いていたらしいのですが、物語の展開に全く納得出来なかったと言うんです。

面白いですよね。私自身は一切そんな事はなく、もちろん個人差はあって当然なわけですがとても簡単なストーリーなので、音声だけでも「あらすじ」は十分に理解できたはずです。

物語の展開に関わるような部分で、画面を見ないと分からないもの。これは一体何だったのでしょうか?

役者の表情?

いいえ。私が見た限り、役者の表情は細やかではありましたが、説明的で大袈裟な演技は避けられていて、表情と台詞との間に大きなズレがあったとは思えません。

それでも尚、画面にだけ映っていたものは?と考えたとき、それは間違いなく役者の「視線」でした。

「視線」のゆくえ


舞台で演技をする時も、何か行動を起こすきっかけは自分で無理やり起こすのではなく、何かに集中する、例えば見ることで起こしていきますので、役者であれば自然にやっていてもおかしくはないのですが、この物語の人間関係は(どこまで脚本に書かれているのかは分かりませんが)登場人物達の「視線」を追わないと、まるきり印象が変わってしまうのです。

あらすじはとても簡単で、倦怠期に陥った夫婦の物語です。主演の原節子が妻で、上原謙が夫。あまり裕福ではありませんが、周りからは美男美女の幸せな夫婦に見られています。

家にテレビも無い時代。結婚5年目。夫の転勤の為、地元の東京から大阪へ越してきて早3年。単調な日々。

ある日、夫の姪っ子が縁談を嫌がり、東京から家出をしてきます。二十歳という若さ特有のわがままさと行動力に翻弄される夫婦の姿が、主に妻の目線で語られていきます。

自分の顔を見れば「腹が減った」「めしにしよう」しか言わない夫が、姪っ子には随分親切に振る舞うので、これまで溜まっていた不満が徐々にあふれ出します。

毎日毎日、台所と食卓を行ったり来たり。たまに外に出て帰れば嫌なことばかり。

そしてとうとう、姪っ子を送り帰すついでに、自分も東京へ出て働く決心をするのでした。

「視線」の使われ方

映画は、出勤前の朝食シーンから始まります。

新聞から目を離さないまま「めしはまだか?」と聞いてくる夫に対して、妻が不満を抱いている様子が、二人の視線が合わないことから分かります。

妻が何を言っても、夫は「へえ」とか「ほお」しか返さないので、音声だけ聞いていたら、なんて無関心な夫なんだ! と思うかも知れません。でもしばらく画面を見ていると、要所要所で妻の方に視線を向けているので、単に新聞が気になっていただけで、悪い人ではなさそうだなぁということも分かってきます。(どちらかというと生真面目で、達観しているところがあるみたいです)

原作を読めば、夫婦それぞれの心情が書かれていますし、二人とも思っている事を口にするので、特別に自分勝手なわけではなく、配慮の足りなさや間の悪さですれ違っているだけなのですが、このまま脚本にしてしまうと「夫婦げんかは何とやら」で、デリカシーについて「言い合いっこ」するだけの、映像としては見ていられないものになってしまいます。

そこで、この映画では妻の目線で物語を進行させ、夫の台詞を極力削ることで、主に妻がその不満をあらわにし、夫は黙って聞いているという形にしているのです。

なので、音声だけでは二人の仲が修復不可能になっていく様にも感じますが、決定的な不満も面と向かってではなく、後ろで寝転がっている夫に背を向けた状態で言わせていますし、絶妙な視線のやりとりが二人の関係をぎりぎり維持させているのです。

またその反対で、妻が「目撃」してしまった夫の失態(と言っても邪なものではなく、配慮に欠いた行動)について、夫が黙っていることで誤解が生まれ、状況が悪化していく場合もあります。

そして、そのバランスが崩れた時に、妻は家を出て東京に行ってしまうのです。

(到着後、実家の洋品店で働いている家族の姿を、遠くから眺めているシーンがまた良くて、家に着くなり子供のようにぐっすりと眠ってしまい、人物紹介などは全くされないのですが、「御飯、御飯よ」という優しい声で起こされるので、それが一発でお母さんだと分かるようになっています!)

このあと、家族に叱られたり、働き口を探す行列を見てしまったりと、東京で様々な経験をするうちに、大阪に戻った方が良いのではないかと気持ちが揺らぎ始めていたところへ、なんと夫が迎えに来てくれるので、二人は事なきを得て一緒に帰るという結末です。

もしこれが「対話」による説得や反省で「解決」する物語であれば、音声だけで聞いていても納得できるような展開になっているはずです。

それは、物語を超える


ところが、そうはなっていないのがこのラスト。小説の未完部分で、完全に映画オリジナルの脚本なんですが、問題の「夫が迎えに来るシーン」

前日の嵐も過ぎ、気持ちよく晴れた日の午後。妻が用事を済ませて実家にもどると、玄関に夫の靴を見付けます。
そのまま家には入らず逃げ出す妻でしたが、その道の先で、夫と出くわしてしまうのです。

夫は風呂屋にでも行っていたのか、手ぬぐいをぶらさげながら下駄を鳴らして颯爽と現れます。通りでは、物語と全く関係のないお祭りが始まっていて、夫の背後には提灯などが涼しげに揺れています。

妻は、「おい」と呼びとめられて振り返り、一瞬あっと思いますが、ふいと逃げてしまいます。
夫は「どうしたの?」と言いながらあとを追います。ここでもし、妻が追いつかれて振り返っていたとしたら、二人は「向かい合う」かたちになるので「対話」が必要になってしまったかも知れません。

しかし、ここで(信じられないことに!)「こども御輿(みこし)」が通るのです。
道の脇に避けたことで「横並び」になってお御輿を見送る二人。

チラッと妻が夫を横目で見やります。
風呂上がりの夫は、文字通り「水も滴るいい男」の顔でお御輿を眺めていて、妻は確かにその横顔を見ています。

聞けば急な出張で今朝、東京に着いたとのこと。
そのまま自然と二人並んで歩きだし、夫が何も気にしていないそぶりで「どっか行くつもりだったの?」と聞くので、妻も「いいえ」と答えるだけ。

「ああ、ノド渇いた」と言ってお店に入り、二人でビールを飲みます。
夫から「一緒に帰る?」と聞かれても、「そうねえ」と言いつつ、ビールを美味そうに飲む夫を確かに見ています。斜向かいに角を挟んで座っていますので、やっぱり横顔です。

結局最後は、列車の座席に並んで腰かけ一緒に帰るのですが、疲れて眠りこけている夫の横顔を、もうはっきりと見ています。

これまで、夫を「見る」ことが自分との関係(夫は自分にとって何なのか)を「眺める」ことだったのに対して、東京で様々なものを目にした末に、突然目の前に現れた夫は、全く真新しい、今はじめて見るのではないかという生々しさで、良く晴れた空の下に、浮かび上がってくるのでした。

まとめ

対話から始まった物語が、対話によって解決せずに、なんだか分からないけどリアルなものに行き着くなんて夢がありますよね。

そんな視点で脚本を書いたら、きっと面白いものになると思います。

この「めし」のラストで、夫婦揃って列車に揺られながら帰るのですが、妻が夫に宛てて書いたけれど出せなかった手紙をビリビリに破いて、列車の窓から紙吹雪にします。

これが原作だと夫の方から手紙が来ているのですが、それでは破くことが出来ませんので、映画では夫からの手紙は来ず、妻も手紙を出さず、対話にならなかった、一方通行で終わってしまった手紙が、最後に真っ白な紙吹雪になるんです。

映画って本当に面白いですよね。




参考文献
「めし」林芙美子(新潮文庫)


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