世の中には様々な職業がありますが、役者ほど、何をどう頑張れば良いのか分からない仕事も珍しいのではないでしょうか?
誰もが日常的にやっていることをカメラの前、あるいは舞台の上でやってみせているだけだと思う方もいるかも知れません。
そんな仕事に、向き不向きがあるのでしょうか?
向き不向きがあるとして、それを判断するためには、大前提として「自分がどういう人間なのか」を知っている必要があります。
ところが、他人を演じるのが仕事ですから、自分は何者でもないわけです。
ちょっと良いですね。自分は何者でもない。
自分のことは分からない。他人のことも分からない。それでも確かな自分を保ちつつ、他人との距離の中で、ぎりぎり誰ともぶつからずに歩くことができるなら、それはもう役者の姿なんです。
そんな姿を、ここでは「敬意」と呼び、役者の出発点にしたいと思います。
「敬意」とは何か?
「人とぶつからずに歩く」と表現しましたが、「同じ時、同じ場所に、重なることのない、全く別の人間が、ただいる」ことをそのまま受け入れるということです。私も、役者として長年舞台に立ち、様々な役者の姿を見てきましたが、その都度、現場で実感するのは「普通に立つ、普通に歩く」ことがこれほど難しいのか!ということです。
舞台上の一歩は、凄く大きな出来事なのです。
普通に立つとはこういうことかな?とやっと思えるようになるまでに、7~8年は掛ってしまいました。
シアターゲームと呼ばれる、演技の訓練の一つとして、決められた空間を「今にも沈みそうな船の上」と見立てて、何人かでその上に立ち、重心が偏らないように、船が沈まないように、動き回りながらバランスを取るというものがあります。
今、その場所で、自分が、何処にいて、何をしなければならないのかを、全身で察知しなければなりません。
誰もが日常で、無意識のうちにやっていることを、何も無い空間で行うわけです。
役者として行なわれるあらゆる努力は、非日常の中で、普通に歩き、普通に立っていられる為のものなんです。
それも、カメラの前、舞台の上で行われるのですから、「自分、相手、観客」という立体的な関係の中で、どう振る舞えば良いのかを問い続ける姿勢にこそ「敬意」が表れてくるのです。
そこをすっ飛ばして、「自分がどういう人間なのか」の答えを出すところから出発した為に、都合の良い物語をでっちあげて、自分も、相手も、演じる役も全て、辻褄合わせの型にはめ込んでいくしかなくなってしまった現場を随分と見てきました。
「分からない」ということ
これが、役者をやっていく上で、最も重要な部分だと思います。
最近、とても感動した小説で、『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子(講談社)という、校閲の仕事をしている女性が主人公のお話があります。
校閲とは、文書や原稿の誤りを直すお仕事です。
人間関係が少し苦手な主人公が、ぽつりぽつりと語る「正しく、丁寧な言葉」の端々があまりに輝いて見えて、読み耽ってしまいました。
このお話の中で、「校閲の前では、全ての原稿は平等である」ということが語られるのですが、その表現をお借りするならば、「役者の前では、全ての人間、生き物、現象は平等である」のです。
役者の仕事は、目の前で起こった全ての事柄に対して、「敬意」を表することだと思っています。これは、「人間観察」とは正反対の態度であるように思われます。
役者の仕事は、「リアリティ」の追求ではありません。
ましてや、「日常の再現」でもなければ、「物真似」でもないのです。
あらゆることが「分からない」こと。
「分からない」けれど、それでも役を与えられた以上は、それが人であろうと、石であろうと、やってみるしかありません。
そもそも全て「うそ」なんです。
「うそ」を「うそ」として愉しむ為に、「リアリティ」があるのです。
良い役者には「うそ」がみなぎっている!
ここでもう一つ、作品をご紹介します。
『カミーユ、恋はふたたび』(2012 仏)という映画をご存知でしょうか?
日々の慰めは、猫とお酒という中年女性のカミーユ。
25年も連れ添った夫は、若い彼女をつくり、カミーユは離婚を迫られてしまいます。
心機一転、出掛けて行った年越しパーティーで、お酒に酔って倒れた拍子に、自らの学生時代にタイムスリップしてしまうお話です。
タイムスリップといっても、もう一人の自分と出会うわけではなく、意識はそのままで、過去の自分に戻るのです。しかも、なぜか姿も中年のまま変わっていないのですが、周りからは10代に見えているという不思議な設定。
ノエミ・ルボフスキーが、監督・脚本・主演の全てをこなす、パワフルな作品です。
タイムスリップのコメディー映画と思って、軽い気持ちで見始めたのですが、なんとこれがとっても面白い「役者の映画」でした。
過去に戻ってしまったカミーユが、一度体験したことのある青春時代を、もう一度体験し直すことになるのですが、最初は戸惑っていたものの、そこには亡くなったはずの母親も健在で、全てが懐かしく、カミーユは嬉しくって仕方がありません(笑)
そして、その喜びを隠す気がないため、周りからは気味悪がられますが、「未来人」という一段高い視点でものを見ているのです。
その姿が、私には「すでに台本を知っている」役者の姿と重なって見えました。
「結末を知っている過去」という夢のような世界で、彼女の言動には「喜び」が満ちているのと同時に、「うそ」がみなぎっています。だからこそ、見ているこちらまで夢中になれるのです。
それでも、もう一度「母親の死」に直面すれば、それはもう全身全霊で悲しい!
「リアリティ」とは、嫌でも生まれてしまうものであって、追求するものではありません。
そんなことよりも、自分が「うその世界にいる」という、ほんの少しの自覚が彼女の演技を軽くして、その「うその世界」で誰よりも自由の身となったとき、彼女の「存在感」は一層強くなります。
「リアリティ」と「うそ」の境界線を、絶妙のバランス感覚で行ったり来たりする、愉快でアクロバティックな振る舞いこそ、役者のあるべき姿なのではないでしょうか。
「バランス感覚」とは?
どんなに、自分が演じるキャラクターや、その過去を考えてきたとしても、本番とは、練習の成果を発表する場では決してありません。
毎回毎回、一からやり直す。
赤ん坊が立ちあがるように、暗闇から現れた役者は、与えられた場所に立つところから始めなければなりません。全てが決まっていようと、全てはアドリブなんです。
セリフをとちったり、噛んだりしたときに笑いが起きるのは、笑われている場合もあるかも知れませんが、それは、決まり切って安定してしまったお芝居に亀裂が入り、その瞬間から本気になるからです。
本気になることはゴールではありませんが、本気にならなければ始まりません。
私はよく、「セリフはアドリブですか?」と聞かれるのですが、間違えていなければ台本通りです(笑)
ただし、セリフに「リアリティ」は込めません。何となく言ってから考えます。
自分が何なのか、相手が何なのか、正直なところ全く分からない。
だから、体がどう反応するのかを見守るしかありません。
「バランス感覚」とは、常にバランスをとり続けるという単純なことです。
それが真実です。「リアリティ」なんて忘れていることの方が多いんですから。
今ふと思い出したのが、私の大好きなスタジオジブリ映画 『魔女の宅急便』(1989 日本)で、13歳になった魔女のキキが、古くからのしきたりに従って、修行を積むために親元を離れ、知らない町へと旅立つシーン。
満月の夜。皆に見送られるなか、箒にまたがって意識を集中するキキ。
颯爽と飛び去るはずが失敗し、吹き飛ぶように飛び上がると、目の前の木にぶつかって、ふらふらと飛んでいきます。
こんな素敵なシーンがあるでしょうか!
可愛らしく健気なキャラクターを指さして、「そんな人間はいない」とか、「リアリティがない」という声も耳にしますが、ふらふらと空を飛ぶキキが、なんとか落ちないようにバランスをとり続ける姿。
期待と不安で胸がいっぱいになっている思春期の女の子を表すのに、これ以上の表現があるなら教えて欲しいです。
飛んだことにするのは簡単なんです。
でも彼女は飛び続ける。
役者の仕事も、まさにこういうバランス感覚のなかで、物語の細部に、役者の体を通して、その都度生まれる何かを捉えては離し、アニメーターが何度も何度も描き直しながら、正しい線を見付けていくように、その時、何処で、誰が、どんな形をしているのか、探り続けることだと思います。
役者は続けるもの
役者は、体力が資本だとか、コミュニケーション能力が必要だとか、色々とあるかも知れませんが、本番は来るのですから、ただやるしかないのです。特に、演劇であれば、舞台の仕込みや、照明、音響、制作に至るまで、役者が兼任する場合も多いです。
舞台から引っ込んだあと、慌てて照明を操作する(笑)なんてこともあります。
街なかで公演のチラシを配るだとか、私は大の苦手です。
でも、どんなに不器用だったとしても本番は来るのですから、やるしかありません。
これは能力などではなく、能力の欠如です。
ブレーキが効かない!という焦りのなかに、何が起きてしまうんだろう?というワクワクが入り混じっているとてもおかしな状況で、役者の体に収まりきらない何かが漏れだして、観客を感電させるようなことが起きるから、演技はやめられないのです。