演劇や映画が好きで、憧れのスターがいて、自分も舞台やスクリーンで活躍したいと願う役者さんたちが、日夜稽古に励んでいます。
そんな中に、ある日突然迷い込んでしまった私は、内向的で、人前に立つのが苦手などうにもならないところからのスタートでした。
みんなの当たり前が、自分には当たり前ではない――。
きっと全ての人が感じている悩みなのかも知れませんが、その違いを手がかりとするほかに、自分自身を知る術はありません。
観ることも、演じることも好きではなかった私が、それでも舞台に立ち続けることができたのは、今日まで悩み続けてきたからだと思います。
最初の戸惑い
現場で真っ先に感じたのは、みんな物語が好きで、演技が好きで、セリフを喋るのが好きだということです。友人との縁で、うっかりこの世界に入ってしまった私には、演じることへの“憧れ”というものが決定的に不足していました。
演劇の面白さが分からないまま、わざわざ自分を表現してみせるような、演技らしい演技(とその頃は思っていました)を拒絶した私が最初に向き合ったのが、“リアリティ”という名の魔物でした。
ナチュラルとリアル
他のみんなが、「上手く演じようとするな、お芝居をするな」とダメ出しを受けるなか、私だけは、「演技をする気がない」と言われていました。
演技が苦手な私はとにかく相手のセリフを聞き、相手の顔を見て、本気で反応することだけに没頭していました。
その甲斐あってか、演技をする気がないというのがむしろ好評価につながったわけですが、私はこの演じない“リアリティ”こそ演技の核心なのでは!?と勘違いをしてしまったのです。
もちろん、現実味があるということですので、演劇に必要な要素ではありますが、いかにも本当らしい“自然でナチュラル”な演技に、一体どれほどの価値があるのでしょうか?
リアリティとは一歩間違えば、「演劇のつもりが、ニュース報道になってしまった」というような、ある意味で刺激だけを求める欲望と隣り合わせです。さらには、「本当なんだから仕方がない」と居直り、常識の内側でちぢこまっている私たちに“そのままでいいんだよ”と甘い言葉を投げかけてきます。
居心地が良く、正直で、想いは伝わり、努力は報われるという悪魔の囁き――。
そのお陰で、演劇が志すのはいかにも自然なリアリティではなく、“リアル”そのものだったと気付くまでに、さらなる長い時間を要したのです。
アイデアとお芝居
スーツを着た二人組が登場し、明かりがぐっと絞られて黒い影がのびるとき、演劇的な空気は高まります。赤いドレスの女性が登場するだけで、何か異質な予感が漂ってくることだってあります。
反対に、何でもない地明かり(特別な演出を含まず、舞台全体を均等に照らす明かり)のなかで、カジュアルな服装の三人組が、ぼそぼそと喋っている様子はいかにもナチュラルに見えます。
小劇場などではよく見かける光景ですが、これが“リアル”と呼べるのかずっと悩んできました。
ワザと“普通にやる”という愉しみ方は、確かにあります。簡単な例ですと、「大怪獣が攻めてきているのをニュースで見ている朝の食卓」といった場合、“普通”であればあるほど面白くなる可能性はあります。
「一つ、突飛な状況を用意して、あとはリアリティで埋めていく」と言い換えてみると、実は多くの作品で使われている手法でもあります。
このときの、リアリティは果たして演劇的な“リアル”と呼べるでしょうか…?
二つの状況の間に、温度差や現実とのズレがあることを“見る側が知っている”からこそ面白いのであれば、それは単なるアイデアです。
本当に難しいところなんですが、劇場とはアイデアを発表する場ではありません。
瞬間瞬間、新鮮味が失われていくアイデアや、意味や、物語なんかを揺さぶり続ける“生(なま)の”役者の体と、お客さんの体とが、この一回限りにおいて共同的に作り上げる全く新しい価値――。
ある稽古の途中、感情的になってしゃがみ込んでしまった相手に対して、私はとっさに手を差し出しました。
台本の進行からは外れていましたが、もともと相手を部屋から連れ出すシーンでしたので、「行こう…?」という軽い気持ちでした。
「アイデアで芝居をするな」
演出から言われた一言です。
私の行動は、日常でも経験があるような“リアリティに従った”何気ないものでした。ただ一つ、演劇的に面白くなかった。
舞台の上で人が立ち上がることは、私の想像よりも遥かに重大なことだったんです。
事実から真実へ
その日以来です。現代劇、古典劇、不条理劇、アングラ劇、人形劇など、様々な劇に夢中になっていきました。
なかでも、日本では「型・技・心」というのがありますが、松竹新喜劇の看板役者・藤山寛美の「リアリティがあるのに、面白くて格好いい演技。うそだけど、うそじゃない演技」には、目の覚める思いでした。
映像でしか観ることができなかったのが残念でなりません。舞台で観たら全然違うんだろうなぁ。
そして、自然に見えるかどうかではなくて、もっと形とか、線とか、重力といった、日常的な感性を超えたところに、ふとあらわれる演劇的な“リアル”についてずっと悩み続けてきた私は、とうとう“事実と真実の違い”というわけの分からないものにぶつかりました。
特に、演劇はその形式からしてフィクション性が強いからです。
これが映画だと、どうしているのでしょう?
――大切な誰かを探しまわり、やっとの思いで見つけるという物語の重要なシーン。
相手もこちらに気づき、二人の視線が交わる瞬間をどうやってフィルムに焼きつけるのか?
二人が再会したに違いないという事実は、外側から見れば分かります。ニュース映像であれば、近づく二人を横から撮り続けるでしょうか。
再会したという事実を見逃してはならないわけですから、現場を押さえ、あわよくば顔のアップも欲しい。事実を伝えるには、これで十分かも知れません。
このとき、映画は何を志すのか?
二人の視線が交わる瞬間を、例えば、外側からではなく、内側から撮るわけです。カメラが二人の間に入って、それぞれの顔を撮る。
画面の中で、一人の視線が動いた瞬間、もう一人の顔に切り替わる。別々の画面の連なりですので、いくら背景が同じ空間であっても、二人が同じ時間、同じ場所にいる保証はどこにもありません。
カメラが一台であれば、演技さえも別々に行う必要があります。
そして、表情がわずかに変化し、心情があらわになろうとする瞬間にカメラはすっと切り替わり、二人の姿を遠くから見つめる――。
決して、事実を物語る証拠にはならない画面を駆使して、目が合った瞬間の真実に迫ろうとするのが映画です。
お芝居を映像で記録しても、映画にはなりません。
それじゃあ演劇の真実はどこにあるのでしょう?
おわりに
ある劇のシーン。どうにも話についていけず、私は客席からぼんやりと観ていました。
すると、さんざん思いあぐねた主人公の女性が、何か重大な決心とともに立ち上がり、これまで何度も突っ伏してきた“ちゃぶ台”を飛び越えて走り出したとき、そこに置いてあった一枚の紙切れが、誰もいなくなった部屋の床にぱらりと落ちました。
それが偶然だったのかどうかは分かりません。それでも私には、風が吹いたように見えたんです。
観劇してからもう何年も経っていますから、ストーリーも、主人公の悩みも、ほとんど忘れてしまいましたが、このイメージだけは消えていません。
この瞬間は事実でしょうか?真実でしょうか?