あなたなら、どんな役者に憧れますか?

私は、生の舞台を観るのが好きで、私自身も役者として舞台に立ちながら、知り合いの舞台や、チラシで見付けた舞台、お笑いや落語なども含めると、毎週ぐらいこの生の舞台を観に行っています。

観劇料も、三千円程度のものから、一万円程するものまで様々なんですが、色々観てきて感じるのは、値段と価値はあまり関係がないということです。

上手い役者は沢山います。
(上手くやりたい役者はもっと沢山)
真に迫る役者は一握り。

その人がどんな役者なのか。
その一点を決めるのは、心構えです。

どんなに素晴らしい練習も、心構え次第では、猛毒になってしまうからです。

役者を目指す道すがら、通るであろう分岐点を押さえつつ、役者にとって最も重要な心構えについてお話ししたいと思います。

■ 目次

「役者の分かれ道」①発声


舞台の上で演技をする時に、真っ先に悩むのが「声量」の問題だと思います。

小さい声でぼそぼそと喋れば、いかにも本当らしく喋れます。
ところが、それでは客席まで声が届きません。

そこで、声を張り上げて喋るわけですが、その瞬間。
本当らしさは崩壊します。
目の前にいる人に向かって喋る、普通の、自分の声じゃなくなるからです。
(私も、初めて大声でセリフを喋った時に、恥ずかしさで一杯になったことをはっきりと覚えています)

いきなりですが、ここが分かれ道。

「自分が声を作っている」ことに気付けるかどうか。

ここを無視して技術に逃げてしまうと、そのまま崖へと突き進むことになります。

ちなみに、今ここで技術と呼んでいるのは、滑舌の訓練だとか、抑揚の付け方だとか、発声練習だとか、セリフを「喋る」ことに重きを置いたものを指しています。

そして現に、多くの役者が「喋る」練習ばかりしているのです。

見た目を整えるように、商売道具である声を整えることは大切なことではありますが、演技とはあまり関係がありません。

滑舌良く、格好の良い声で、大きく、スムーズに喋ったぐらいでは、観客に声を届けることなど出来ないからです。
それどころか「作られた声」は、会話を拒絶し、全てを台無しにします。
舞台でも、TVでも、映画でも、「作られた声」はセリフの語尾が全て、喋っている本人の「胸に落ちる」感じがするので、一発で分かります。

「自分の声じゃない」と気付くこと。
そうならない、ぎりぎりの所まで声を大きくしたら、そこで止める。
そのことを一生忘れずに、稽古を続けていさえすれば、気が付いた時には地声が底上げされているはずです。

この時、一番に働いている身体の器官はどこでしょうか?

そうです。「耳」です。
演技をする時に重要なのは、「聴く」ことなんです。

「役者の分かれ道」②セリフ


「聴く」ことは、演技をする時に限らず、誰もが普通に行っていることでもあります。
それを最大限やらなければならないのが、役者の務めではないでしょうか。

常に、自分の頭の中の声を聴き、相手の発する声を聴き、それに反応して自分が発した声を聴く。

自分が発した声を聴いて、初めて自分が何を考えていたのか分かることもあるように、その場その場で必要に応じて「喋る」ことは、ほとんどオートマチックな状態であって、自分ができることなんて「聴く」こと以外にはないんじゃないかとさえ思います。

徹底した自己観察と、他人への興味。
そこから生まれる「聴く」という行動を通して、初めて会話が成立します。

ここで分かれ道。

会話とは、「内容を伝え合うものではない」と理解できるかどうか。

会話とは、「続けること」にしか意味がないのです。
内容が「伝わる」ことはありえません。「(伝わったかな?)と判断する」だけです。
永久に伝わらないことこそが、会話の原動力です。

ここを無視してセリフだけを追いかけていると、そのまま崖へと突き進むことになります。

相手は「何」を、「どういうつもり」で言っているのか?
自分は「何」を、「どういうつもり」で言っているのか?
それは、通じているのか?
食い違っているのか?
そこはどういう場なのか?
第三者はどう思っているのか?
喋りながら気が付き、聴きながら移り変わっていくのです。

それらを、ひっくるめて「聴く」こと。
さらには「視る」こと。「察知」すること。同時進行です。
中身と外見では、内容もテンポも一致しないから面白いのです。
それが普通なんです。

セリフだけを聴いて、セリフだけを吟味していると、全てに後れをとることになります。
セリフなんて、最後まで聴く必要はありません。もし言葉がボールだとしたら、床に落ちてどこかへ転がって行ってしまいます。とりあえず、あいだに留めておく。
手に取って、まじまじと見つめ、思いっきり投げ返すことは、普通ではないのです。

全体をよく「聴き」、セリフは漫画の「吹き出し」のように、ぽんっと「喋る」こと。

それでも上手くいかない部分こそが、自分と「役」との差なのであり、課題であり、ここまで来てやっと現場に参加していると言えるのです。

「役者の分かれ道」③役づくり


「自分の声」で、相手と「会話」が出来て、ようやくスタートライン!
(スタートラインの手前に、なぜこんなにも分かれ道があるのか)

自分と「役」との差を埋めるべく、「役づくり」をしていきます。

それでは分かれ道です。

普段の自分とは全く違う人物なので、初めは気持ちが理解できず、無理をしてセリフを喋っていましたが、しっかり役づくりをしたので、セリフがすんなり喋れるようになりました。

どこかおかしいと思いますか?
この一文通りに「役づくり」をしている役者は、かなり多いはずです。

ここに気が付かないと、堂々と崖を目指して突き進むことになります。

ある役者さんから頼まれて、同じシーンの演技を繰り返し見ていた時のことです。
見ていて「とても面白いなぁ」と思った時に、そのことを伝えると、「うーん、でも今の演技は気持ちが続かなかったからダメだ」と言うんです。
今度は、「全然面白くないなぁ」と思って見ていたら、私のところにやって来て、「今のどうだった!?気持ちが一本につながって、手応えが違う」と言うんです。

面白いですよね。まるっきり反対です。
役者が気持ち良いと感じたら、失敗だと思ってください。

気持ちが続かずに、「自分は何を喋っているのだろう?」と思いながら口にしたセリフの方が、圧倒的に面白いんです。それで完成ではありませんが、その「役」だって無理をしてセリフを喋っている場合もあるということです。

わざとだったり、ふざけていたり。何か違うなぁと思っていたり。無理をしないと言えないセリフもあるのです。
役者の「気持ちを貫きたい」という欲望が、「役」の抱える自己矛盾のようなものを掻き消し、心から、いかにもすんなりと、セリフを吐かせてしまうと、やっぱりそれは普通じゃないのです。

「役者」の目指すところ


役者が「気持ち良くない」と思っている時が、上手くいっている時でしょうか?

「役」って、よく分からないのですが、初めから舞台の上にいるみたいなんです。
「役が降りてくる」なんて言い方をしますが、どうもそうじゃない。
「役」になるために、散々準備をして、稽古をして、いざ本番。

舞台の上で、観客との関係のなかで、改めて「自分が演じているに過ぎない」と思い知らされるのですが、ある公演中の出来事。

演出家から、「立ち方」を変えるようにアドバイスを貰いました。
とても長いセリフのシーンなのですが、「動き回らず、定位置から動かないように」と。
それから、ほんのちょっと、自分と「役」との「リズムの違い」のダメ出し。
出番の直前に。

そして、本番。

信じられないことが起こりました。「役」が勝手に演じてくれるのです。
気持ちいいも何もありません。自分は黙って眺めているような感覚。
観客が自分の演技に集中して、何かを感じ、時には笑っているのが全部見えるんです。

「ここに居たのか」

それが、「役」について確かな手応えを感じた時の感想です。

そんな時、自分はそこにはいません。
もう何もしなくて良いのです。

役者の務めは、恐らくここにあります。
「演じる」のではなく、「身体を明け渡す」のです。

ここまで来てやっと、そこに「何かいる」というリアリティが生まれてくるのだと思います。

どんなに上手に、仕草を真似し、喋り方を研究し、「こんな人いる」というリアリティを生み出したとしても、それならわざわざ劇場に足を運ばなくても、駅前や、公園や、喫茶店に行けば良いのですから、劇場とは、「人」ではない「何か」に出逢う場所なのかも知れません。

まとめ

①「自分の声」で、②相手と「会話」が出来る、③「自己矛盾」を抱えた「何か」が、暗闇から突然出現する。

ここまで来ても、本当にスタートラインから一歩踏み出せたぐらいなんです。
役者がやらなければならないことは山ほどあります。

準備して、準備して、準備して、これが正解という道はありませんが、間違った道は確実にありますので、周りをよく見て、間違ったと思ったらくるりと向きを変えます。

そして、なんとか本番まで辿り着いたなら、途中で積み込んだ荷物は全て捨てます。
舞台上では「空っぽ」でいなければ、「身体を明け渡す」ことができません。

役者がやらなければならないことは山ほどありますが、舞台上でやれることはないのです。

もしかしたら、舞台上に「何か」が現れて、そして跡形も無く消え去る。
そのためだけに命を削れるか。

ただそれだけだと思います。


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