“セリフの癖”と聞いて、どんなことを思い浮かべるでしょうか?

周りの役者仲間に質問してみると、喋り方や身体的な癖が多くあがりました。

滑舌、早口、一本調子、語尾が消える。それから、相づち、腕組み、髪を触る、照れ、ポケットに手。(原因の半分ぐらいは、緊張なのでは…?笑)

長年かけて作られた癖ほど、その人の個性でもあると同時に、着物についてしまった折り目のように、直そうとすると手間隙がかかるものです。

なかでも最も頑固な癖は、何でしょう――?


私は、“考え方”だと思っています。せっかく折り目を直しても、また同じようにタンスに押し込む癖があれば、元通りです。

例えば、「声が小さい」と注意されたとき、発声練習をすれば直せるかというと、必ずしもそうではありません。発声の問題よりも、“声を出したくない”という心理的な要因が大きい場合があるからです。

大きな声で自己表現すること自体に抵抗があれば、どんなに練習をしても声は出ません。

私自身、ぼそぼそ喋る癖と、手を動かして喋る癖に随分と手こずりましたが、そんな自分の癖を知るための唯一の試みとしては、本当に恐ろしいことなんですが、自らを外側から眺めてみるほかありません。

「鳥の視点」と言ってもいいですし、演劇的に言うならば「道化の視点」です。

それは、何百回と同じシーンを繰り返すかも知れない演劇のスペシャルな出来事に対して、新鮮味を失わずに立ち向かうための、ただ一つの試みでもあります。

人はなぜ話をする?

すらすら話すことを、“立て板に水”なんて言ったりしますが、よどみなく喋る――というリアリティはあり得ます。

自然な言葉で、目立たずスムーズに声を出したい――。

そんな素朴な欲求です。

ところが多くの役者さんは、セリフを意味も無く喋ることを嫌います。「心からセリフを言いたい!」という誠実さが、セリフに感情を込める癖や、セリフに明確な動機を与える癖を作りだしています。

愛別離苦のような緊急時の強い感情を、人はいつでも持っているわけではありません。

喋りながら頭の中を整理することって結構あると思いますが、喋りながら初めて自分の考えを知ったり、言いたいことと違う気がするなぁ――と思いながら喋り続けたりもしているはずです。

話のきっかけは必要ですが、何か強い動機がなくても、相手やその場の空気に影響されて何となく話しているうちに、何を話していたのか忘れ、どうやって話を止めればいいのか分からなくなるような“でたらめさ”こそ、疲れを知る人間のリアリティだと私は感じます。

すらすら喋って気持ちが良い!という感覚さえも、言葉を発する原動力になり得ますし、そういった喜びも、感情やメッセージも、セリフを聞いているだけでは分からない、セリフと態度の微細なズレのなかに表れるものです。

これほど(言語化しようとすると、とてもつらい…!)ぐちゃぐちゃになってしまいそうな、限りなく高度なやりとりを普段は平気でやっているはずなのに、役者として舞台に立つと、なぜか単調なロボットのようになって、「こういう理由があって、こういう行動を取りました」と一言で終わってしまう。

ここが演劇の難しさであり、面白いところでもあります。

演劇には、デフォルメされた“演劇の言葉”というものがあって、リアリティはその手がかりに過ぎませんが、基本はやはり普通に喋ることが一つの目標です。

そういうわけで、台本を頂いたあとの最初の読み合わせでは、イメージを固定しないように、丁寧な棒読みで進めることがしばしばあります。

演技は物真似なのか


舞台を観に行って、開始一分。

役者たちが、何の話をしているのかさっぱり分からないことがあります。

大抵は、ボソボソと普通っぽく喋っているか、もしくはハキハキと特殊な声で喋っているかのどちらかです。

これも立派な癖ですよね。どちらにしても、劇世界が全く立ち上がっていないのは、何かを真似ようとしているからでしょう。

「日常の再現」も、「理想のセリフの再現」も、演劇とは全く関係がないのです。

かつての私がそうでしたが、大きな声でセリフを喋ると、一瞬でリアリティがなくなってしまうことに悩んでいました。ボソボソと普段通りに喋りたい欲求に勝てない…!

でも、それだと声が届かないので、無理して大きい声で喋るんですけど、その不自然さに耐えきれず、今度は手を動かして大袈裟に喋ることで、帳尻を合わせるという…。


先日、通りがかった公園で、3~4歳の小さな女の子が一人。

「ここは、動物だらけだわ!どうしよう…どうしよう…!」

と、両手をいっぱいに動かしながら、演劇らしい(演技と言えばこれよねという)演技を、繰り広げていました。いや、可愛らしいんですけどね。この種類の演技を私たちは、いつどこで覚えるのでしょうか?


演劇は、何もないところからの創造です。時間いっぱい、客席まで声を届けるために基礎訓練は必要だと思いますが、セリフの喋り方を身に付けたり、理想的な声を作るためではなく、あくまでも舞台上での「体の動かし方」や、「使える声の幅を広げる」ことが目的です。

具体的なやり方については、以前の記事に書いていますので、こちらをお読みください。
『演技の基本はリラックス!寝ながらできる腹式呼吸のやり方とは?』
『本番が近い!一人で出来る演技の練習方法3選!【最優先課題】』

“演劇の言葉”について

さて、基礎訓練を行いつつ、どこをどうやって克服してきたのか。

実は自分でもよく分かっていません。

地声が大きくなっただけなのか、セリフ以外の部分で演技ができるようになったのか、イメージや注意を向ける方向がはっきりして、声を扱えるようになってきたのか。

言葉にするとどれも違う気もしますが、場慣れして楽々とできるようになったわけではなく、本番中でさえ「自分はどんな声で喋っているのか?」と、悩み続けています。

「ここは、無人島です」

と言えば、そこが無人島になる狂った世界です。

かと思えば、いつのまにか日常がそこにある。

どんなに理想的な発声法を獲得したとしても、それだけでは「無人島」を体現することはできませんし、「え?」というセリフすら、満足に言えるようにはなりません。

例えば、相手のセリフに驚いて「え?」と返すときに、「え?」のセリフと同時に驚いた顔をする役者さんはとても多いです。

それでOKの場合もあるかも知れませんが、大体は説明演技と言われてしまいます。テレビ的なリアクションが癖になっているのであれば要注意です。

(え?)と驚いて、相手を見る。表情から何も読み取れない。そこで「え?」と投げかける。それだけでも無数の演劇的なやりとりが生まれるはずなんですが、一つの演技で済ませようとしてしまう。

型にはまった演技が気持ちいいのは知っています。だってポーズと気持ちが一致するんですから。それも癖の一つです。

でも、そう気持ちいいと感じたら立ち止まってみる!

困ったときの演劇史


セリフの練習として、“句読点のあとは必ずトーンが上がる”というように、(正確には分かりませんが)セリフを分解して、めりはりのあるセリフに仕立てる技術を習っている役者さんもいます。

完成形が分からないので判断は難しいところですが、私にはどうしてもナレーションのような喋り方に聞こえるのです。セリフはその都度変わるものですし、句読点は“書き言葉”の約束事ですから、セリフとは関係ないと私は考えています。

決して、役者間で対立しているわけではなく、演出の違いと言ってもよいのかも知れませんが、長い演劇史を見てみると、私たちの悩みがそのまま歴史をたどっていることに気がつきます。


その昔――。

王族や英雄が、世界の運命を背負って苦悩していたのがギリシャ悲劇ですから、堂々たる俳優が登場して、セリフを名調子で発すればことは済んだわけです。

その後、シェイクスピアによって、階級の違う様々な人間模様が描かれますが、演劇と言えば真っ昼間の屋外が当たり前でしたから、全ての状況はセリフによって朗々と説明されます。(と言っても、シェイクスピアは詩劇ですので、つまりは“演劇の言葉”で書かれているのですが、当時はリアリティが無いという批判も受けました)

時代が変わり、舞台が宮殿から家庭に移ると、イプセンやチェーホフなどによって、より細やかな感情を求めるリアリズムの演劇が描かれるようになります。

すると、俳優の存在感や発声だけではどうにもならなくなり、優れた演出家が生まれ、スタニスラフスキーなどの活躍によって、より現実に近い、心理を伴う体験型の演技が主流となっていきました。

日本の近代演劇も、シェイクスピアやチェーホフなどを海外から持ち込むかたちで始まっています。

翻訳劇として、外国のセリフ回しと、心理的な演技をベースにした“新劇”と呼ばれるスタイル(歌舞伎は“旧劇”)が生まれ、それに反発するように、「発声練習など不要です」と言わんばかりの“アングラ劇”が登場し、唯一無二の役者の肉体を見せつけます。

世の中の多様化とともに演劇も複雑化し、また、不毛な戦争体験から、堂々巡りを繰り返すような、人物よりも“関係性”が主役になっている“不条理劇”なども生まれました。

かなり大まかな説明ですので、もっと知りたい方は、より多彩な演劇史の流れから劇作の構造を探る、ゴードン・ファレル著『現代戯曲の設計 劇作家はヴィジョンを持て!』(ブロンズ新社)を読まれることをおすすめします。

現代戯曲の設計―劇作家はビジョンを持て!

それにしても、演劇史の移り変わりが、演劇を始めた役者が通るであろう悩みそのままという気がしませんか?(笑)


私は、セリフの言い回しを決めることは一切しませんが、独白(モノローグ)や口上など、日常的に自己演出があってもおかしくない部分ではやはり言い回しを考えます。

物を売るためのシーンがあったとすれば、それは自身の死活問題ですから、言い回しにはこだわります。

会話のなかでも自己演出はやはりあるでしょうし、繰り返しになりますが、劇中のセリフは、必ずしも日常を写し取ったとものではなく、デフォルメや詩的な“演劇の言葉”として台本に出てきますので、手持ちのリアリティだけでは間に合いません。

行き着くところに演劇的な理想があれば、練習はどこから始めても良いと思いますが、もしも、印象はコントロールできるという気持ちがあるのであれば、それはお客さんに伝わってしまいます。

どんな考え・技術も、捨て続ける、悩み続けることが、その時代、その場に対する最も演劇的な行為であるということだけは確信しています。

“普通の言葉”とは?


日本語らしい“話し言葉”を追求して、みんながそれぞれ同時に喋っているときのような、普段の日常会話から物語を立ち上げていくスタイルの演劇をご存知でしょうか?

「現代口語劇」、「同時多発会話」などでお馴染みの劇作家、演出家であります平田オリザ著『演劇入門』(講談社現代新書)のなかに、“普通の言葉”についての印象的なエピソードがありますので、ご紹介します。

演劇入門 (講談社現代新書)

『転校生』というお芝居のためにオーディションで選ばれた女子高校生21人。その稽古中の出来事。

「帰りにマクドナルドに寄ってかない?」

この台詞にみんながつまずいたそうなんです。他のセリフは普通に言えるのに、ここだけおかしい。

よくよく彼女たちに理由を聞いてみると、普段、マクドナルドのことを「マクドナルド」なんて呼ばないから――というのが原因らしいんです。

確かに、関東圏であれば「マック」ですよね。

ここで台詞を書き直すかどうかは難しいところだと、著者は述べています。プロならば、このぐらいの台詞でつまずくようでは困ると。

これはすごく大事なことで、“つまずいた”のであれば、私はむしろ喜ばしいことだと思います。

見るからに難しそうな言葉ではなく、“普通の言葉”が相手だとセリフの違和感など無視して、心情で押し切ったり、発声の仕方のみで乗り切ろうとする役者さんは必ずいます。


私は台本を渡されたら、その著者の他の作品や、テーマやキャラクターのヒントになりそうな小説など、時間の許す限り何冊も読むようにしていますが、なぜだと思いますか?

小説を読むのは、自分には想像できない“普通”を探るためであり、これは日常生活でも常に意識しているところです。

同じ著者の作品に触れるのは、あるシーンが何かのパロディだったり、わざと滑稽に書いてあったりする“著者の癖”を知るためでもあります。

それを知らないと、意味の分からないセリフが出てきたにも関わらず、適当に流したり、当たり前のこととして“本当らしく”発言したりしてしまいます。

これは、正解を探しているのとは違います。単に、面白くできる可能性を広げているのです。これがセリフの厄介なところで、著者は答えを知っていると考えるのも、頑固な癖の一つです。

普通じゃない「マクドナルド」が言いにくいなら、台本のせいにしなくても、無理して普通に言わなくても、わざとらしく「マ・ク・ド・ナ・ル・ド」と、ふざけて言ったっていいのです。可能性はいくらでもあります。

役者は役者で、著者の言葉を借りて、新たな劇世界を創造しなくてはいけない――。

言いにくいセリフが出てきたら、それは演劇的なやりとりを増やすチャンスだと私は思っています。

セリフの種類

舞台上で発せられるセリフは、大きく分けると以下の三つになるでしょうか。

「独白」=モノローグ(一人語り)
「会話」=カンバセーション(共通の話題を話すこと)
「対話」=ダイアローグ(向かい合って話すこと、相互理解)

「独白」は一人語りですので、“心の声”のような演劇的な心理描写や、演説、口上などがあげられます。

私はこれが一番苦手です。どう考えても“嘘”ですし、リアリティでは落とし込めません。客席に向かって一人で喋り続けるなんて至難の技です。

私事ですが、これ以上無理というぐらい一人で舞台上を動き回りながら練習して、考えつく限り本番も毎回違うことをやって、それでも何か足りず、本番何日目かで、出番直前に演出家から「その場から一歩も動かずに演じてみて」と言われ、ぶっつけで上半身のばねだけで演じたときに、ちょっと想像できない程のエネルギーがセリフに乗っかって、お客さんと一体になる経験をしてしまいました。

練習するということは、段々とうまくなっていく――という次元ではないんですよね。計測不可能。限界まで積もり積もった何かが、決壊して溢れ出すような、そういうことが現場では起きるんです…!

話を戻しましょう。

「会話」とは、ごく身近な人達との日常会話です。価値観が近い者同士の気軽なお喋りですので、「やっぱ、あれだよね」で通じてしまうようなやりとりです。

不完全な言葉でも、ある程度は通じてしまうので、会話から物語を進めることは、劇作の視点では難易度が高いと言えます。「今日、仕事でさぁ」と言えば通じるところを、物語を伝えるために、「今日、仕事先の工事現場でさぁ」などと身内相手に説明ゼリフが始まるのは、あまり良くない例ですね。

なので、外側から関係の異なる他人が入ってきて、「対話」が生まれることで、物語は進行しやすくなります。価値観が違うと分かっているからこそ、言葉に気をつけながら丁寧に話しますし、熱心に聞こうとするのです。

相手の変化にも敏感になり、相手がそのセリフを言うことで、何を伝えたいのか?と頭がフル回転を始める。この「対話」が本来、役者がやらなければならない仕事であり、アクションです。

また、身近な者同士でも例えば、私が幼い頃のこと。さっきまで私と普通に喋っていたはずの母が、祖母から何か言われた途端に、急に冷たい女性の声になって「――何ですか?」と返していたのは子供心には恐怖でしたが、(母と子供)・(嫁と姑)・(孫と祖母)というように関係がくるくると変化する者同士がシーンを共にすることで、演劇的には面白くなっていくわけです。

さっきまで悪口を言っていたはずなのに、当の本人が登場したら、ころっと態度を変えるなんてのはよくある光景ですし、二人の間でしか通じない関係に、もう一人が加わって、“力関係が逆転する”というのはコメディーに多いですよね。

本人たちとっては真剣な話でも、違う視点から考えると滑稽で面白いというのが、最初にあげた「道化の視点」でもあります。


でも、こんなふうに声や態度が変わって、劇の最後まで良い人なのか悪い人なのか分からない!というのが魅力的なキャラクターだと思います。

無意識で構わないのですが、「会話」と「対話」の違いが分かっていないと、誰といても同じ演技になってしまい、「私はこういう人間です」という説明を繰り返すことになります。

英語だと、「カンバセーション」と「ダイアローグ」で、響きが全然違いますね。異文化交流の多い国では、はっきりと使い分けていると聞きます。

それに比べると、「会話」と「対話」なんてほとんど一緒の響きです。話は通じるだろうと考える日本人の癖が、ここにも表れているのかも知れません。

会話の練習


言葉をやりとりする練習として、(想像の)キャッチボールをしながら、相手の胸に向かってセリフも一緒に届けるというやり方があります。

応用で、床にバウンドさせたり、頭上を通り越したり、向かい合っていない状態で始めたりと、距離や向き、人数などを変えながら行います。

この練習は、セリフの方向を明確に意識することと、意識をセリフ以外の動作に分散させて、楽な声を引き出すことが目的です。

こういったせっかくの練習も、デフォルメだと理解できていなければ、セリフは相手の胸にぶつけるものだと思い込んでしまったり、また、“会話はキャッチボール”という教訓と、“相手のセリフをしっかり聞く”という二つの教訓に引きずられて、相手が話している間はじっと動かず、自分の番になったら思いっきり喋るだけという、テンポの悪い演技になってしまうのです。

セリフは聞きすぎてもダメです。全部聞き終わる前に大体言いたいことは分かりますし、話が通じているとも限りません。セリフの内容と目に見える態度のズレから、相手が本当は何を言いたいのか探るわけです。

相手が話し終えてから行動したのでは遅すぎるということです。これも癖になっている役者さんが多いです。客席からは、自分のセリフの順番を待ちながら休憩している人に見えます。


反対に、相手が途中で動き出したことで、これ以上今のセリフを続けるのは無理だと感じれば、私は自分のセリフでさえ、言い終わる前に次のセリフを被せていきます。

セリフが聞き取れなかったり、誰に言っているのか分からなければ、私は「え?」と聞き返しますし、いじわるでやっているわけではなく、会話になってもいないのに、無視して演技を進めるから、お客さんからしたら何をしているのか分からなくなるのです。

自分は誰なのか?


ここに過去という病があります。

そして、セリフの背景を徹底的に埋めなさいという指示に悩む役者さんは多いかと思います。

キャラクターの心理、目的などを明確にするために、台本には書かれていない過去を詳らかにしていく作業――。

貧困とか、病気とか、のっぴきならない裏設定を付け加えることで、セリフを強化しようとする役者さんもいます。

それはそれで、人それぞれだと思いますが、キャラクター=過去のエピソードと考えるのも、かなり手強い癖なんです。

人は、その日の体調や日程、服装、場所、食べたものなど、ついさっきの出来事によって左右される部分も大きいわけで、いつでも過去にしがみついているのは病的なことです。

キャラクターの抱えている悩みや、生まれてから現在までのストーリーをすらすらと話してくれる役者さんがいますが、誰か別人がそこにいる――というリアリティはなく、それが嘘か本当かは分からないけど、自分のことをよく喋るという役者本人の癖が表れるばかりです。

自分のことをよく分かっていて、自分の言動をコントロールできていると考える癖でもあります。それは、とても息苦しく感じます。

私がセリフの練習をするときは、立たされた状況のなかでいかに思わず喋らされてしまうかというところから始めています。

過去は、あるときふと水面下から浮上するもので、それは役者が準備するものではありますが、経験した全ての出来事から、都合のいいエピソードだけを選んで繋げたものがストーリーであって、日差しも、風も、距離も、相手のちょっとした変化も、自分を形づくる本物の出来事はいつでも目の前にあるのです。

おわりに

ものすごく遠回りに見えるかも知れませんが、これが私のセリフの練習です。セリフをなんとか覚えたら、まずやることは「忘れること」です。

そして舞台に出て行って何が起きるか?

「リアリティの視点」と「道化の視点」を行ったり来たりしながら、実験を繰り返すように、練習を重ねては捨てていきます。

自分自身の変化にばかり気を取られていると、回を重ねるごとに自分で自分に飽きて、また別の刺激を探すという悪循環に陥ってしまいます。

本当は、その時、その状態、その位置関係になることはもう一生ないのです。

――今、何が起きているのか?

それだけがセリフを発する原動力であり、何百回と繰り返すかも知れない同じシーンを晴れやかな気持ちで乗り越えていくための、自分自身への問いかけでもあります。


(参考文献)
『現代戯曲の設計 劇作家はヴィジョンを持て!』(ゴードン・ファレル著 ブロンズ新社)
『演劇入門』(平田オリザ著 講談社現代新書)

 演劇の記事一覧