谷川
今回紹介する『やまなし』は、小学校の国語の教材として採用されているのでご存知の方も多いかと思います。
私も小学生の時、国語の教科書でこの作品を読み、夢中になった一人です。

しかしこの『やまなし』は、大人になってから再読すると、子どもの頃には感じることの出来なかった、自然の美しさや純粋さを深く味わう事ができると感じ、是非紹介したいと思いました。

ということで、今回は、宮沢賢治の『やまなし』をご紹介します。



『やまなし』のあらすじ

この作品は、大正12年(1923年)4月に岩手毎日新聞社「岩手毎日新聞」に掲載されました。

現在では光村図書・国語の6年生の教科書に教材として掲載されていますが、初めて教科書に採用されたのは昭和45年(1970年)のようです。


物語の舞台は、谷川の青白い水の底。
季節は夏を迎えていました。

カニ
そこでは、二匹の蟹の子供らが何やら話をしています。

「クラムボンはわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「クラムボンはねてわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」


クラムボンの話、行ったり来たりするお魚の話。

子供らの会話に合わせ、ぽつぽつと泡が水銀のように光って流れていきます。
すると突然、その静寂を破るように、水面からぎらぎらと青く光るものが鉄砲玉のように飛び込んできました。

兄さんの蟹は、その青いものの先が、コンパスのように黒く尖っていたのを確かに見ていました。

そのうち、その青いものと、一匹のお魚が上の方にのぼり、それっきり姿が見えなくなりました。
その後、水面は、まるで何事もなかったかのように、黄金色の網のようにゆらゆら揺れ、泡がつぶつぶ流れ辺りに静寂が戻りました。

その一瞬の出来事に、蟹の兄弟はその場に立ちすくんでしまいました。
そこに、子供たちの様子がおかしいことに気がついたお父さんの蟹が姿を現しました。

かわせみ
兄弟から今起こった出来事を聞いたお父さんの蟹は、それが「かわせみ」だということと、かわせみが蟹にはかまわないということを教えてくれました。

しかし、恐怖心を拭いされない兄弟の様子を案じたお父さんの蟹は、兄弟に「ごらん」と水面を見るように言いました。
水面には、白く美しい樺の花びらがすべるように流れていきます。


季節は移り代わり、蟹の子供らはだいぶ大きくなりました。
水の底の景色も秋の姿にすっかり姿を変えていました。

谷川
白い柔らかな円石、小さな水晶の粒、金雲母のかけら。
月光がいっぱいに透き通る冷たい水の底は、しんと静まり返り、遠くから微かに波の音が響いてくるだけです。

蟹の子供らは、眠らずにしばらく泡をはいて遊んでいました。
そんな子供らの様子をみて姿を現したお父さんの蟹は、「もう遅いぞ、寝ろ寝ろ」と子供らを寝るように促します。

弟の蟹は、自分が吐いた泡と兄の吐いた泡、どちらが大きいかお父さんの蟹に訊ねます。
お父さんの蟹が、「それは兄さんの方だろう」と答えると、弟の蟹は「僕の方が大きいんだよ」と泣きそうになります。

その時、黒くて丸い大きなものが、ドブンと水の底に沈んできたかと思うと、再び水面の方に浮かんでいきました。
またかわせみだと思った子供の蟹らは首をすくめました。

するとお父さんの蟹は、その落ちてきたものをよく見てから「あれは、やまなしだ」と、子供の蟹らを連れて、流れていくやまなしの後を追いかけていきました。

三匹の蟹の親子と、三つの影法師、合わせて六つが踊るように、流れるやまなしに続きます。
水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいです。

間もなく、やまなしは木の枝に引っかかってとまりました。
「おいしそうだね」と言う子供の蟹らに、お父さんの蟹は、「もう二日ばかり待つと、こいつが下に沈んできて、それからおいしいお酒ができるから」と言い、子供の蟹らを連れて自分たちの穴に帰っていきました。

『やまなし』の名言

作品の冒頭

小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈げんとうです。

作品の最後

私の幻燈はこれでおしまいであります。


物語の舞台となっているのは、五月と十二月の谷川の底。
それを「二枚の幻燈」と表現しているのが、冒頭からとても美しいと思います。

幻燈とは、むかしの映像スライドのことで、光を当てて幕などに投影することで描かれた絵柄を鑑賞することができます。

川底に魅せられていた私たちを、作品の最後ではそっと鑑賞席に戻してくれるような、不思議な余韻も味わわせてくれます。

そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶の月光がいっぱいにすきとおり天井では波が青じろい火を、燃やしたり消したりしているよう、(中略)その波の音がひびいて来るだけです。


月光の降り注ぐ十二月の谷川。光の筒がラムネ瓶のように水中に差し込んでいて、上を向くと青白い火を噴くように水面がゆらめいています。静寂のなかで、波の音だけがかすかに聞こえてきます。ここ以外にも随所にありますが、自然の美しさが存分に感じられ、思わずうっとりしてしまう箇所です。

その横あるきと、底の黒い三つの影法師が合せて六つ踊るようにして、やまなしの円い影を追いました。


やまなしのいい匂いにつられて、蟹の親子とその影法師たちがひょこひょこと動きまわっているところを想像すると、なんとも言えない微笑ましい気持ちになります。

『やまなし』の感想

私が、この作品を初めて読んだのは小学6年生の時の国語の教科書でした。
そのときに抱いた感想は、蟹の子供らは初めてかわせみを見て怖かっただろうなとか、「やまなしのお酒」って美味しそうだなとか、そういうことでした。

しかし大人になってから改めて再読してみると、新たな発見や感想が生まれてくるのが、この作品に限らず、様々な物語を読む時の醍醐味だと思います。

再読後は、全体を通して、読み手である私たちが谷川の底で暮らしている蟹たちの生活を覗かせてもらっているんだという印象を受けました。

そしてなんといっても、この短い作品のなかに込められた、こんなにも人の心を惹き付ける美しく純粋な自然の表現は素晴らしいと思います。

本当に、言葉のひとつひとつが美しい作品だと思います。

「クラムボン」と「イサド」について

『やまなし』のなかには、「クラムボン」、「イサド」といった一見して意味の分からない言葉が登場します。

冒頭で紹介したように『やまなし』は教科書に教材として掲載されています。
ちなみに教科書では、イサドは「作者が作った町の名前」、クラムボンは「作者が作った言葉で意味はよくわからない」と説明されています。

しかしネット上では、クラムボンについて考察した文章がたくさんあります。

「泡」説、「光」説、「⺟カニ」説、「賢治の亡くなった妹・トシ⼦」説、「クラブ(crab)、つまりカニ(crab)たち自身が投影されたもの」説、「貝(clam)説」、「アメンボ」説、「クランポン(荷物を引き上げるつかみ金)」説、「人間(水死体?)」説。

様々な説があるなかで、それぞれの説にそれらしく理由付けがされていて非常に興味深いのですが、どれが正しいという答えはでていません。

でも私個人は、それがこの作品の魅力だと思っています。
本来、谷川の底は人間の棲む世界ではありません。
そこに住む蟹の親子が、人間である私たちには分からない言葉を使っていてもおかしくないですよね。

また、その意味のわからない言葉が入ることで、作品のなかにちょっとした不思議さが生まれてくるのもこの作品の魅力のひとつだと思います。