誰でも、得体の知れない焦燥感や憂鬱な感情に心を支配されることがあると思います。
昔も今も、それは人間として生きていくうえで共通の悩みのようです。

もちろん私も例外ではありません。
憂鬱な気持ちの時は、もう何もしたくないし、意味もなく叫びたくなることもしばしば・・・。

そんな時あなたは、憂鬱な気持ちを吹き飛ばそうとしますか。
それとも、その気持ちが通り過ぎるのを静かに待ちますか。

今回は、梶井基次郎の『檸檬』をご紹介します。



『檸檬』のあらすじ

この作品は、大正14年(1925年)1月に青空社より出版された同人誌「青空」創刊号にて発表された短編小説です。


舞台は、京都。
主人公の「私」は、得体の知れない焦燥感に心を支配されていました。
今まで自分を楽しませてくれた、どんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節すらその憂鬱な感情から私を救い出してはくれませんでした。

わざわざ蓄音機で音楽を聴かせてもらいに出掛けても、ものの二三小節聴いただけで気持ちが落ち着かなくなるのです。
いたたまれなくなった私は、街を浮浪し続ける日々を過ごしていました。

その頃の私は、他人からすれば、みすぼらしいと思えるような風景に、強くひきつけられるようになっていました。

例えば、物干しの汚い洗濯物、がらくたが転がっているような裏通り。
壊れかかった街、土塀が崩れ傾きかけた家屋。
かと思うと、向日葵やカンナの花が咲いている。

雨や風が蝕んでやがて土に還る、そんな風景に趣きを感じ、ひどく親しみを感じるのです。

傾きかけた家屋
そして私は、そんな廃れた街を歩きながら、「ここは京都ではなく、遠く離れた仙台や長崎だ」と妄想を膨らませるのです。

誰一人知る人のいない街。
がらんとした旅館に、用意された清潔な蒲団。
許されるのなら、そこでひと月ほど何も考えず横になりたい。

そんなことを想像し、壊れかかった街で、私は現実の自分自身を見失うという行為を楽しむのでした。

このような私ですから、生活に余裕があるはずがありません。
以前はちょっとばかりの贅沢に慰められていました。

切子細工や香水瓶
二銭や三銭、とはいえ美しいもの。
「丸善」を訪れるのが好きだった私は、切子細工や香水瓶、小刀、煙草などを見るのに小一時間も費やすほどでした。
そして、結局一番高価な鉛筆を一本買って帰るのが私にとっては最高の贅沢だったのです。

しかしそんな丸善ですら、今の私には重苦しい場所に成り下がっていました。

ある日、私はいつものように、何かに追い立てられるかのごとく街から街へと彷徨い歩いていました。
裏通りの道を歩いたり、乾物屋で棒鱈や湯葉を眺めたり。
そして私は寺町通の果物店の前でふと足を止めました。

その果物店は、さほど立派といえるほどの店ではありませんが、果物が本来持っている美しさを露骨に感じることができる店であり、私の知る範囲で最も好きな店でもありました。

それは、近所にある鍵屋の二階のガラス窓から透かして眺めるこの店の風景をも私を楽しませるほどでした。

その日、私はその果物店で買い物をしました。
その店にしては珍しく「檸檬」が並んでいたのです。

檸檬
私は、檸檬が好きでした。
レモンイエローの絵具をチューブから搾り固めたような単純な色、紡錘に糸を巻いたような形。
そのひとつの檸檬は、私の心を魅了して止まなかったのです。

檸檬を握ったその瞬間から、長い間私の心を苦しめていた憂鬱な気持ちが、幾分か弛んできたことに気がつきました。
その果実の香りを胸いっぱいに吸い込むと、体中元気になっていく気さえし、私の心は幸福感で包まれました。

そして私が最後にやって来たのは、あの丸善の前でした。
重苦しい気分を避けるため、この頃はとんと訪れるのを止めていた丸善に、今はやすやすと入れる気がしたのです。
私は、店内に足を踏み入れました。

しかしどうでしょう。
店内に入った途端、私を包んでいた幸福感は消え、再び憂鬱な気持ちが襲ってきたのです。
美しい香水の壜も、煙管も私の心を癒してはくれません。

画集の棚の前に立つと一冊の画集を棚から抜き出します。
そして開いてはみるものの、ゆっくりと見る気持ちも、それを元あった場所に戻す気持ちも起きません。

そんなことを続けているうちに、私の前には自分が棚から抜き出した画集が積み重なっていました。
それを見た私は、「あ、そうだそうだ」と袂の中に入っている檸檬のことを思い出しました。

私は、さらに画集を手当たり次第に積み上げたり、また慌ただしく崩してみたりして、己の城を築きあげました。
新しく画集を付け加えたり、取り去ったりすることで、その城は赤や青、様々な色に姿を変えていきました。

そしてその上に、先ほどの檸檬をひとつ爆弾に見立てて置くと、私は何喰わぬ顔で外に出ました。
変にくすぐったい気持ちが私を微笑ませます。

丸善の棚に爆弾を仕掛けた悪者が私。
しばらくして、あの丸善が美術の棚を中心に大爆発したら、どんなに面白いだろう。
重苦しい気持ちも、木端微塵だ。

そんなことを考えながら私は、また街を彷徨い歩き出しました。

『檸檬』の名言

あのびいどろの味ほどかすかな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが(中略)なんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。

変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。(中略)大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。


憂鬱に心を苛まれて以来、切子細工や香水瓶ではなく、おはじきやガラス製のビーズを好むようになった私。
実際には、おはじきやビーズに味などあるはずがありませんが弱気になっている私の中に蘇った、幼い頃の幸せだった記憶が爽やかな味をさせているのかもしれませんね。

また、「丸善が大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」という普通なら恐ろしい言葉も、「私」が、積み上げた画集の上に爆弾と称し、檸檬を置いてきたことを想像すると、読んでいるこちらもくすりと微笑んでしまいます。

『檸檬』の感想

自分は爆弾を仕掛けてきた犯人で、もうしばらくするとあの丸善も木端微塵だと想像する「私」。
憂鬱な気持ちに心が支配されている時、全てを壊してやりたいと思う気持ちからくる破壊衝動は何だか分かるような気がしますね。

しかし、爆弾に見立てるものがまさかの「檸檬」とは、何だか梶井のセンスとユーモアを感じますね。

「丸善」、「八百卯」と梶井基次郎


作中に登場する「丸善」という店。
もちろん皆さんご存知の、書籍や雑誌、文具、雑貨などが販売されているあのお店です。

作品の舞台となった丸善は、当時、三条通麩屋町にあり、その後、河原町通蛸薬師へ移転。
2005年に惜しまれつつ閉店しました。

閉店時には、実際に本の上に檸檬を置きに来る人も多かったのだとか。

それから10年の時を経て、2015年再び京都の地にオープンしたのが河原町通にある「京都BAL」の地下1F、地下2Fに売り場を展開する「丸善・京都本店」です。

ちなみに、丸善も実在するのだから、作中に登場する「私」が檸檬を購入した果物屋も実在するのでは!?と思い調べてみたら、何と実在しました!!

こちらは明治12年開店の「八百卯」というお店だそうです。
残念ながら、ご店主がお亡くなりになったそうで2009年1月に閉店されたとのことでした。

しかし、作中にその時代、その場所にあったお店が登場していると、確かにその時、梶井基次郎という人がその場所に存在したという事実をリアルに感じることができますよね。