夢野久作『少女地獄』より「何んでも無い」のあらすじ・名言・感想~あなたはあなたのままでいい
人は生きていくうえで、たくさんの仮面を使い分けながら生活しているといわれています。
たとえば、他人にいい人と思われたい人がつけている「偽善者」の仮面。
「この人が憎い」という憎悪を覆い隠すための仮面。
人を傷つけないようにつける仮面…。
心に秘めた思いを隠す仮面は、人それぞれだと思います。

しかし、どんなに仮面をつけていても忘れてはならないものがあります。
それは、「本当の自分」です。
本当の自分を見失うことほど悲しいことはありません。
かつて私も、本来の自分の姿を忘れかけていたことがありました。
その苦しさを知っているからこそ、みなさんにはそうなってほしくないのです。

今回は、夢野久作の『少女地獄』の中の一編、「何んでも無い」をご紹介します。

■ 目次

『少女地獄』について

『少女地獄』は1936年、黒白書房から刊行された夢野久作の短編小説集です。
今回紹介する「何んでも無い」の他、「殺人リレー」、「火星の女」の三編からなっています。
このうち、「殺人リレー」のみ昭和9年に「新青年」に掲載されました。
また三編全てが、登場人物が誰かに宛てた手紙のような形式になっているのが特徴です。



『少女地獄~何んでも無い~』の登場人物

まずは簡単に、この作品の登場人物を紹介します。

・臼杵利平(うすきりへい)
耳鼻科を営む医師で、この物語の主人公です。
ある日、自身の経営している医院にやってきた姫草ユリ子を看護婦(現在の言葉では看護師)として雇うことになります。
K大の先輩医師・白鷹のことを尊敬しています。

・姫草ユリ子
この作品の軸となる人物です。
臼杵の病院に来る前は、K大の耳鼻科に看護婦として勤務していました。
19歳の美少女でありながら、非常に優秀な看護婦で、関わる人全てを魅了する、ある種の才能の持ち主です。
巧みな立ち回りのよさで、老若男女に好かれ、病院のマスコット的存在になっていきます。

・白鷹秀麿(しらたかひでまろ)
臼杵の先輩医師で、大学時代には臼杵の指導を行っていました。
現在は、K大病院で耳鼻科の助教授を務めています。
白鷹との再会をめぐり臼杵は、ユリ子の言動に違和感を覚えることになります。

・曼陀羅(まんだら)
産婦人科病院の院長で、面識のない臼杵の前に突然現れます。
ユリ子の最期を知る人物です。

『少女地獄~何んでも無い~』のあらすじ

この物語の全体は、耳鼻科医の臼杵が先輩医師・白鷹に宛てて綴った1通の手紙の体裁を取っています。
手紙の内容は、姫草ユリ子の自殺を告げるものでした。

ことの発端として、臼杵の元を産婦人科医の曼陀羅が訪ねてきたことが書かれています。
曼陀羅は、臼杵にひとつの封筒を手渡しました。
それは、臼杵の元からこつぜんと姿を消した看護婦・姫草ユリ子の遺書でした。

手紙は臼杵の長い回想へとつづいていきます。


姫草ユリ子が臼杵の前に現れたのは、昭和八年五月のことでした。
開業を次の日に控えた日の夕方、心持ち地味な着物に、派手なコバルト色のパラソル、新しいフェルトの草履、バスケット一つという姿でションボリと医院の玄関に立っていたユリ子。
「こちらで看護婦の募集はありませんか?」

これが、臼杵とユリ子の出会いでした。
実家は青森で造り酒屋をしていて、女学校を卒業後、家族の反対を押し切って東京に出てきたというユリ子。
女学校卒業後は、ずっと信濃町のK大病院の耳鼻科で働いていたといいます。

自身の家庭の事情やK大病院を辞めた経緯などを述べたユリ子のあまりに清らかで、健気な態度に臼杵は心を奪われます。
そしてたった数分の面接で臼杵の信頼を得たユリ子は、臼杵の病院で働くことになります。

元を辿ればユリ子の言うことを鵜呑みにして、「姫草ユリ子」という女性の身元をきちんと調べなかった臼杵も軽率だったのかもしれません。

波打ち際
さらにユリ子は看護婦として驚異的な技術を兼ね備えていました。
もって生まれた魅力と巧みな立ち回りのよさで、臼杵だけではなく老若男女問わず患者の心をも魅了していくユリ子。
 
そんなある日、ユリ子が、自身が尊敬する白鷹の知り合いだということを知った臼杵は、ユリ子に白鷹に会う算段をつけてくれるように頼みます。
「ええ。私が先生のお力になれるのなら…」
この時、いつもの気軽い彼女に似合わない妙な薄暗さを感じた臼杵。
しかしすぐに無邪気な快活さを取り戻した彼女を見て、臼杵はとくに考えを進めませんでした。

それから数日後、白鷹から臼杵宛に電話がかかってきました。
しかし電話をよこした白鷹は一方的に喋りまくり、臼杵に一言も喋らせようとはしません。
そればかりか、間が悪いのか白鷹と一度も会うことができないのです。
「今度会おう」と約束しても直前になると「風邪を引いて寝込んでいる」、「妻が倒れた」などユリ子を通じて断ってくる白鷹。
しかしこの時、まだ臼杵は、ユリ子が紹介してくれたのだから「会おうと思えばいつでも会える」くらいに思っていました。

しかしそのうち臼杵の妻が、ユリ子のことを怪しむようになります。
「あまりにめぐり合わせが悪すぎるじゃありませんか。あたし、姫草さんが何か企んでいるんじゃないかと思うの」
その一言から、ユリ子の嘘にどんどんほころびが生じていきます。

そして医師会の会合で、とうとう念願の白鷹と対面した臼杵。
白鷹は姫草ユリ子が今、臼杵の病院に勤務していることを知ると、怒りをあらわにした後、
「姫草ユリ子がまた…何か、しでかしましたか」
と、心配そうに息を切らしながら臼杵の顔を覗き込みました。

姫草ユリ子は、看護婦としての技術が驚異的なものだったばかりでなく、同時に驚異的な“嘘”の天才だったのです。

以前勤務していたK大病院でも、巧みにそして平然と嘘をつき続けていたユリ子。
K大病院に勤務していた頃、宿直のたびに白鷹に襲われそうになったとも…。

実家は決して裕福ではなく、19歳というのも真っ赤な嘘でした。
姫草ユリ子というのも全くの偽名で、彼女自身が虚構の塊だったのです。
しかもユリ子が、病院から小型注射器やモルヒネなどを盗んでいたことも発覚。
それを目撃した看護婦に「喋ったら承知しないよ」と脅しまでかけていたのです。

その瞬間、臼杵には重なり合っている黒い屋根や明滅する広告電灯までもが、彼女の吐き散らかした虚構の残骸のように思われてなりませんでした。

その後、姫草ユリ子は黙って臼杵の元から姿を消しました。

遺書
そこに現れたのが、曼陀羅医師でした。
ユリ子の遺書にはこのように書かれていました。

白鷹先生
臼杵先生
わたしは自殺いたします。
(中略)
妾が息を引取りましたならば、(中略)今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、(中略)平和なご家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。
罪深い罪深いユリ子。
姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
お二人のような地位や名望のある方々にまでも妾の誠実まごころが信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。
(中略)
可哀そうなユリ子は死んでいきます。
(後略)


しかもこの曼陀羅という医師は、ユリ子が心臓発作で死んだようにみせかけるよう手助けをしていました。
というのも、曼陀羅もユリ子の嘘の被害者であり、遺書に名前の書かれていた白鷹と臼杵のことを可憐なユリ子を弄んだ悪い男だと思って疑わなかったのです。
そのため曼陀羅はユリ子の名誉を守るため、彼女の遺体の検屍も行わないという医師法違反まで犯してました。

きれいな化粧をして、まるで生きている時のように微笑んで死んでいったというユリ子。
そこまでして彼女が嘘をつき続けた理由とは何だったのか…。

皮肉なことに、その後も、ユリ子に会うために臼杵の病院を訪れる患者は途絶えることはありませんでした。

花

『少女地獄~何んでも無い~』の名言

ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んでいったのです。
彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。
ただそれだけです。

最後まで嘘をつき続け、自分のついた虚構のなかで生き死んでいった姫草ユリ子。
彼女はまさに“理想の自分”という空想のなかで生かされていたのかもしれません。
そしてそれを現実にするため、死んでいったのでしょう。

さようなら。
彼女のために祈ってください。

これは、臼杵から白鷹へ宛てた手紙の締めの言葉です。
私はこの部分に、臼杵の、何でもないことで苦しんで、何でもないことで死んでいったユリ子への哀悼の意とともに、「嘘」という名の仮面をつけ、虚構のなかでしか生きることのできなかった彼女に対する憐れみの気持ちも感じました。

とはいえ、ユリ子があのような遺書を残して死んだことで、彼女の死後もなお、彼女の嘘に振り回されている臼杵、白鷹、曼陀羅の三人には同情を覚えますよね。

『少女地獄~何んでも無い~』の感想

タイトルの『何んでも無い』ですが、この物語、本当に何でも無いんですよね。
実際、ユリ子が嘘をつく必要は何も無かったんだと思います。
ユリ子さえ、自分の描いた空想のなかで生きていくことを望まなければ。

上記しましたが、ユリ子には、“理想の自分”を生きるため「嘘」という仮面が必要だったんですね。
それは、女性ならきっと理解できる部分もあると思うんです。
人から若く見られたいとか、いい人に見られたいという感情は誰の心のなかにもあると思うんです。
もちろん、私の心の中にも。

でも、そのために最後には命を落とすなんて何だか、悲しすぎますよね。

ちなみに、彼女の本当の年齢はおそらく25歳前後だと推測されます。
それを19歳と偽っていたユリ子、恐るべしです!

ユリ子は優秀な看護婦であろうとするよりも、可憐な少女であり続けることを優先していたような気がします。
看護婦として周りからその技術を認められていたのだから、その力を伸ばすような生き方を選択すれば彼女の人生も、彼女を取り巻く人の人生も大きく変わっていたことでしょう。
しかし、それは彼女自身が許さなかったのでしょうね。

あなたはきっと、あなたのままでよかったのに…。

これを読んでいるみなさんが、自分らしい生き方を見つけられますように。
時に仮面は必要だけれど、そのつけ方を間違えないで…。