エリック・サティ
サティという作曲家をご存知ですか?

サティについては一般的にはあまり知られていないと思いますが「ジュ・トゥ・ヴ―」(あなたが欲しい)や今回取り上げる「ジムノペディ」は聴けばあの曲かとわかると思います。


サティの写真を見て何か感じ取って頂けた方もいるかもしれませんね。こちらを見て微笑んではいますが、何か含みのある感じだと思いませんか?

この写真からも他の作曲家の写真や絵とは少し違うものを感じられると思いますが、彼はかなりの変わり者でした。

今回はサティが他の作曲家とは何が違っていてどこが変わっていたのかなどについてふれながら「ジムノペディ第1番」を例にしてサティの曲の特徴について書いていきたいと思います。

■ 目次

エリック・サティの生涯

エリック・サティの生涯
彼がどのような人生を歩んだのかを早速見ていきましょう。

エリック・サティ(Erik Satie/1866-1925)はフランス出身の作曲家です。

エリックはオンフルールという場所で生まれました。エリックの父は船舶仲介業をしていましたが、それを辞めてパリへ一家で移り住みます。

エリックが6歳の頃に母が亡くなります。彼はパリを離れ、オンフルールにいる祖父母に預けられることになりました。

祖父はエリックが教会のパイプオルガンに興味を示したことなどから彼が音楽好きということに気づき、教会のオルガニストだったヴィーノにピアノを習わせることにしました。8歳の頃でした。

母が亡くなり、父と離れ離れになるという不幸があった後、彼の人生は順調だったかというとそうではなく、12歳の頃に祖母が溺死体で発見されるという悲劇に見舞われます。

幼い頃に母を失い、数年後に祖母を溺死という形で失ったサティ。この事が彼にどのような影響を与えたのかはわかりませんが、2つも悲しみを抱えなくてはいけなくなったことで彼の心は酷く傷ついたのではないかと思います。

祖母が亡くなった後、祖父の元を離れ再び父のいるパリに戻ります。

父は新しい妻を迎えることになり再婚します。後妻がパリのコンセルヴァトワール出身のピアニスト、ピアノ教師ということもあり、エリックはコンセルヴァトワールに入学させられました。

ヴィーノに習っていたときはとても楽しくしていたようですが、コンセルヴァトワールにはなじめなかったようで、図書館で調べものをしたり、ノートルダム大聖堂で読書をしたりすることが多くなっていったようです。

ギリシャ文化やグレゴリオ聖歌など中世に興味を持ち神秘主義に傾倒していきます。

その後は何を考えたのかよくわかりませんが軍隊に入隊します。しかしすぐに嫌になり除隊します。何がしたいのかよくわかりませんね…。ただの気まぐれだったのでしょうか。

除隊した後はモンマルトルにある「シャノワール」(黒猫)という文学キャバレーにたびたび出入りするようになり、そこでピアノを弾くようになります。この「シャノワール」には音楽家だけでなく芸術家が多く出入りしており、お互いが良い影響を与えていました。

「シャノワール」でピアニストをしていたサティでしたが、オーナーと揉めて辞めさせられてしまいます。文学キャバレーのような場所は他にもあり「シャノワール」の近くにあった「オーヴェルジュ・デュ・クル」でピアニストを続けました。

文学キャバレーで出会ったペラダンは秘密結社「聖堂と聖杯のカトリック薔薇十字教団」を主宰していました。神秘主義に傾倒していたサティはペラダンにとても興味を持ち、とても短い間でしたがこの教団の専属作曲家としても活動しました。

サティと同じ頃パリで活躍していた作曲家のドビュッシー(1862-1918)と出会ったのもペラダンと同じく文学キャバレーだったようです。彼らが出会った頃、ドビュッシーはローマ大賞を取るなど、輝かしい経歴をすでに持っていましたが、サティにはそのような経歴はなく無名でした。

しかしドビュッシーはこれまでのどの作曲家の音楽とも違う個性的なサティの音楽をとても評価し、才能をいち早く認めていました。

サティほどではないにしても初期のドビュッシーもこれまでの伝統からはやや外れていた部分があるようなので、何か似たものを感じたのかもしれませんね。

ドビュッシーとはその後も交流が続きます。

サティは39歳になってからもう1度音楽の勉強をし直そうとスコラ・カントルムに入学します。ドビュッシーは反対したようですが、コンセルヴァトワールの時のようにサボることはなく、真面目に3年間過ごしたようです。

サティはどこか1つに留まるということはせず、常に何か気になることや新しいことを求めてはそれに挑戦し、そして飽きるとまた次に興味の湧いたものにつき進むということをしていったように私は感じます。

それは新しい価値観を持てることになると思うので創作の面ではとても役に立ち、常に新しいものを作り出す源になったのかもしれません。

サティは音楽家として大成功したという作曲家ではないのかもしれませんが、多くの刺激的な仲間たちと出会い、影響を受けたり、影響を与えたりできた人生は彼にとってはとても充実したものだったのかもしれません。

サティは59歳で肝硬変のため亡くなりました。

サティは何がそんなに変わっているのか

タイトルがとにかく変

サティの曲はとにかくタイトルが変です。変なタイトルのものを書いてみますね。

ぶよぶよとした前奏曲(犬のための)
ひからびた胎児
梨の形をした3つの小品
 ※連弾
家具の音楽 ※室内楽曲

どうですか?このタイトルから曲が想像できますか?

ショパンは自身の曲にタイトルをつけたがらず、つけられるのも嫌だったようですが、サティは積極的に意味不明なタイトルをつけています。

曲によっては拍子や小節線、調号が書き込まれていないものがある

曲によって様々ですが拍子が書いてなかったり、小節線がなかったりします。しかし拍が失われているというのではなく、拍子感はあります。

サティ「ジムノペディ第1番」ピアノ楽譜1
この楽譜は「ジムノペディ第1番」です。調号と拍子が書かれていて普段見慣れている楽譜と変わらないですね。

サティ「グノシエンヌ第1番」ピアノ楽譜1
こちらの楽譜は「グノシエンヌ第1番」です。拍子と小節線がありません。拍子と小節線が書いてある楽譜に慣れているので読みづらさを感じますね。

表現の指示が独特

サティ「グノシエンヌ第1番」ピアノ楽譜2
こちらの楽譜は「グノシエンヌ第1番」の最後の部分です。Sur la langueと楽譜に書かれています。これは「舌の上にのせて」という意味です。表現が独特過ぎてよくわかりませんね…。

この他にも…

外出せずに
やつれた肉体
お見事
自己の存在なんか意識せずに
大変結構
食べ過ぎないこと
よろしい


同じ曲に全て出て来るわけではありませんし、このような言葉が全く書いてない曲もあります。お見事とか大変結構などの励ましの言葉のような指示もどのように捉えるべきなのか…。

理解に苦しむことを思い浮かべながらニヤニヤしながら作曲したのかもしれませんね。

これまでの作曲家は枠組みの中でどのように自分らしさを出し、他の作曲家と違うものを出そうかともがいていたのではないかと思いますが、サティは枠を取り払うことにしたんだと思います。

小節線を書かないことや決まりきった楽語から脱却することでもっと自由であろうとしたのだと思います。

しかし、内面的には神秘主義に傾倒したり、教会に行くことを好んだりと精神的な支えを求めていた感じもします。自由でありたいけど、精神的な支えになる何か縛りのようなものを欲している気がして、あやうさを感じるのは私だけでしょうか?

ジムノペディについて

古代ギリシャではジムノペディアという神々をたたえて裸体の青年たちが神々の像の前で踊ったり、歌ったりするという儀式があったそうです。

この儀式の様子が描かれている壺が残っていて、それを見たサティがインスピレーションを受けて書かれた作品がジムノペディだと言われています。

ジムノペディは1888年に3曲をセットにして書かれています。「3つのジムノペディ」の中で一般的によく知られているのは「ジムノペディの第1番」です。


サティのピアノ作品はシンプルのものが多く、どれも技術的にはあまり難しくはありません。ジムノペディはどれもかなりシンプルで、音が読めてリズムがしっかり読めれば弾ける程度の曲です。

このようなシンプルな曲を素敵に聴かせるためには普通の場合メロディーをよく歌って弾けるように練習すると思います。

しかしサティの場合はBGM的な要素を持つ「家具の音楽」を書いていますし、家具のようにそっと寄り添う音楽を目指したということもあるので、それ程感情豊かに歌って弾いて欲しいとは思っていなかったのかもしれません。

それを考えると割と淡々と弾くのが正解なのかもしれません。

ジムノペディと検索すると「怖い」というワードが出てきます。これは作曲された経緯が怖いとかそういうことではなく、聴いたときに何か怖さを感じるということなのだと思います。そのように感じるのはかなり感受性豊かな方だと思います。

私は怖いとまでは感じませんが、不安定でぐらぐらしているなという風に思います。

それには実は理由があります。

サティ「ジムノペディ第1番」ピアノ楽譜2 (動画 冒頭から)

これまでの機能和声の中でよく使われていた七の和音(4つの和音)というのはⅤ₇(属七)なのですが、ジムノペディ第1番の冒頭ではⅣ₇とⅠ₇という和音が使われています。この和音は機能和声の中では使われて来なかったので聴き馴染みがなく、とても新しく聴こえたのだと思います。この和音は16小節目までずっとくり返されます。

この曲が終わりそうで終わらない感じを受けるのはⅤがほぼなくⅤからⅠへ向かうという決まりきった和音進行がほとんど出て来ないからです。

これが不安定さの要因の1つだと思います。


サティ「ジムノペディ第1番」ピアノ楽譜3 (動画1:49~)

中間にⅤが出て来るのですが完全な形では出てきません。CisになっていればⅤなのですが、♮がついているので完全な形ではなく、中途半端な終わり方という印象になっています。


サティ「ジムノペディ第1番」ピアノ楽譜4 (動画3:39~)

そして最後の部分も同じような音の並びなのですがFisがFになっているため中間部よりもさらに不安定な終わり方のように感じられます。

和音からも不安定さが感じられるのですが、教会旋法を用いることによって調性をあいまいにし不安定さをより感じさせているような気がします。

サティがキャバレーでピアニストをしていたことが作曲に関係しているかどうかはわかりませんが、雰囲気を醸し出すのが上手な作曲家だなと私は感じます。

演奏会は聴きに来て下さったお客様が静かに演奏に耳を傾けてくれますが、キャバレーのような店内で演奏する場合はそのようなことはなく、その場にあった音楽をチョイスしたり、弾き方を多少変えたりする必要があったと思うのです。

耳に残らないようにすることもあれば、わざと引っかかりを作り音楽に耳を傾けさせるということも時にはしたのかもしれません。お客さんの反応を見ることによってどんな音が耳に引っかかり、どんな音が耳に引っかからないのかを学んでいったのではないかなと想像します。

サティは他の音楽家や作曲家にはない感性を持っていたため、変わり者扱いを受けることもありましたが、それまでの作曲家には考えつかなかったことやそれまでの伝統を良い意味で壊していきました。

サティから影響を受けたとされる作曲家は多くおり、彼以降の作曲家は形式や調性などからより自由になっていきます。

彼の場合、作品自体よりも他の音楽家や芸術家に与えた影響の方が高く評価されています。作品をもっと多くの人に知ってもらい、作品自体の評価が今よりももっと上がるといいなと思います。

まとめ

◆サティはフランス出身の作曲家
◆ドビュッシーと親交があった
◆サティの作品には奇妙なタイトルの作品がある
◆ジムノペディは古代ギリシャの儀式からインスピレーションを受けた作品




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