「金田一耕助シリーズ」4作品目の「黒猫亭事件」です。1作目にあたる「本陣殺人事件」の翌年(昭和22年)に発表されました。(単行本では「本陣殺人事件」に同時収録されています。)横溝正史と金田一耕助の対面から始まる、とても珍しい作品です。この作品以降にも横溝正史は作品の中に登場することがありますが、今回が「金田一耕助と初対面」になるのです。

岡山県の自宅で、微熱を出して床についていた横溝はだれかが自宅の土間に立った気配で目を覚まします。「どなたでしょうか」とおそるおそるその人物に問いかけた横溝に対し、「ぼ、ぼく・・・」と金田一耕助が名乗ります。“あの探偵”が、「本陣殺人事件」や「獄門島」を、自分が勝手に小説化したことに文句をつけにきたのだ!と横溝は狼狽します。

作家が自ら、作品の語り部や登場人物になってしまう作品を私は読んだことがありません。本来架空の人物である金田一耕助と対話し、「実際に発表された過去の作品の評価」や「今後の構想など」といった現実的な会話を作品の中で描くのですから、もはや「パラレルワールド」状態で、本当は金田一耕助が、横溝正史をモデルに自分の事件を小説化したのではないか、と錯覚しそうになりました。

作家の目は読者の目でもあるので、金田一をこれほど身近に感じられるシーンは他にはありません。超・現実的にこの作品を読み解くと、横溝正史の技量のすごさに感心するばかり。大作2作発表した後にこれを持ってこられたら、誰しも金田一ファンになってしまう力を持った「プロモーション作品」です。いやあ、横溝正史って、本当にすごい!!

「“顔のない死体の事件”があったら情報ください!」


対話の中で、横溝正史は自分が探偵小説家として「顔のない死体」を題材に作品を書いてみたいと金田一に相談します。「顔がない死体の事件を描いた作品は、ほぼ被害者と加害者が入れ替わっているパターンだけど、もっとおもしろい事件があるかもしれない。そんな事件があったら教えてほしい!」だなんて、まだ起きてもいない(そもそも殺人事件は起きてはいけない)殺人事件の情報提供をお願いしてしまうのです。

金田一の突然の来訪からしばらく経ったある日、横溝正史宛に金田一から荷物が届きます。
「顔のない死体をネタにして小説を書きたいと、以前言っておられましたよね?横溝先生、あなたならこの事件、どう描きますか?」このような手紙ともに、事件の資料が送られてきたのでした。金田一から届いた「顔のない殺人事件の資料」を基に、横溝正史が作品として描いていきます。

あらすじ


戦争が終わり、復興しつつある東京。夜回りをしていた巡査が物音に気が付く。一軒の家を囲む塀の向こうから、土を掘り返すような音がしているのである。塀をよじ登り、巡査が懐中電灯を向けた先には、近隣の寺の若い僧がその家の庭の土を必死の形相で掘り返しているのであった。

一心不乱に土を掘り返す僧と、それを見守る巡査がやがて目にするものは・・・土の中から姿を現した「人の足」であった。巡査は塀を乗り越え、僧を問いただしながらさらに死体を掘り起す。その手が死体の顔を掘り当てたとき、2人の男は絶叫する。死体の顔は男女とも見分けがつかないほどの状態で、かろうじて胸の形状から女性だと判別できた。

死体が発見されたのは「黒猫」という名前の酒場である。「黒猫」を営んでいるのは、糸島大伍(いとしま・だいご)とその妻・お繁夫婦である。警察が動き始めたとき、すでにこの夫婦は、「黒猫」を売り払い、神戸へ転居しもぬけの殻だった。「黒猫」は、いつもお繁目当ての客で賑わっており、経営自体は上手くいっていたので、店を手放す理由がいまひとつはっきりしない。

経営断念を余儀なくされる理由があるとすれば、夫婦間の問題が考えられる。驚くことに、糸島夫婦にはそれぞれ配偶者とは別の相手が存在した。夫である大伍には、ダンサー業の鮎子という愛人がおり、妻・お繁には風間俊六という土建屋を営む愛人がいた。それなのに、お繁は大伍が愛人を持っているということに対し「異常に嫉妬する姿」を、店で働く女中たちにあからさまに見せている。

嫉妬深さを隠さないようなお繁なので、愛人・鮎子を殺害してしまってもおかしくはない・・・この事件に関わった面々はみなそのように考えた。しかし、1人の女中の証言で、「死体は鮎子である」という考えに疑問が生じ始める。誰も、鮎子の顔を見たことがないのである。女中がお繁の言いつけで大伍と鮎子の逢引を確認すべく尾行をしたが、鮎子の姿が確認できたのは鮎子の派手な日傘の柄だけで、鮎子の顔まで確認することが出来なかった。

女中が尾行に失敗したその日から、お繁は「化粧にかぶれた」と言って女中たちの前に“顔”を見せなくなったていた。後ろ姿は見せるものの、かぶれた顔を見せるのを嫌がって結局店を閉めて夫婦が出ていくまで、誰もお繁の“顔”を見ていなかった。こうして「見つかった死体は、鮎子ではなくお繁なのではないか?」という新たな疑惑が生じた。

「この事件は、顔のない死体の事件だね。被害者と加害者がいれかわっている。」金田一耕助は「大伍を争う2人の女の殺人事件である」最初はこのように睨んでいた。しかし、お繁の愛人・風間俊六の証言によって調査は急展開し、金田一耕助はこの顔のない殺人事件の“顔”をとうとう見つけ出した。この事件には、もう1つ別の”顔“が存在していたのである・・・。

この作品のみどころ


1つのトリックに、もう1つのトリックが重ねられています。金田一のセリフである「被害者と加害者が入れ替わっている」を単純に捉えてしまうと、まんまと横溝正史のワナにひっかかります。“殺さなくても“顔”を無くすことは出来る“これが私からのヒントです。
現実的に、やってみようと思ったら(殺人以外は)できる方法かもしれません。

冒頭部分で描かれた、横溝正史と金田一耕助の対話の中にあるセリフの「顔がない死体の事件を描いた作品は、ほぼ被害者と加害者が入れ替わっているが、そうではなくてもっとおもしろい事件があるかもしれない。」・・・そうです、これはその“もっとおもしろい事件”なのです。真犯人が殺したかったのは、憎いあの女でもなければ、愛おしいあの人でもない意外な人物なのです。

ダイドンデン返し!はありません。なぜなら、この作品は「金田一が犯人の心理を慮って推理する」というものだからです。真犯人は自分の口で事件の真相を一切語りません。しかし、物語が収束するまでに真犯人は多くの布石を投じています。布石だらけといってもいいでしょう。この布石をどれだけ読み解いていけるか、がこの作品のみどころです。

「金田一耕助」をよろしくお願いいたします!


金田一耕助シリーズの前に、流行した「由利麟太郎シリーズ」があります。金田一耕助は、由利麟太郎シリーズと同時期に、ある理由から「急遽登場せざるを得なかった」人物でした。
当初、横溝正史は金田一耕助と「長いお付き合い」をする予定にはしていなかったそうです。

本作品は金田一耕助が登場してから4作目になります。つまり、まだ世間の人たちには「横溝正史=由利麟太郎」のイメージが強くもたれていた時期で、「由利麟太郎の寂しい去り方」を嘆く由利ファンの声も聞こえていたといいます。新キャラである金田一耕助を、強くファンに認知させたい、PRも兼ねた作品であると私は思います。

金田一耕助のセリフが、とにかく長い!!

横溝正史と金田一耕助の「固い絆」が結ばれた、記念すべきこの作品の特徴です。金田一シリーズの後半の作品では、金田一耕助自体がそれほど登場せず(「三つ首塔」はその代名詞ですね)セリフもピンポイントのみであったりしますが、本作品では約1ページを使うくらいの「長セリフ」が目立ちます。

口調自体も、「ヒーロー」っぽさのある「煽り口調」です。「本陣殺人事件」や「獄門島」のような「ちょっと気弱な探偵」とはまったく異なる人物像で描かれているようにも見えます。辛口評価するならば、「金田一の人となりが、長ゼリフによって希薄になっている」そんな一面もあります。とはいえ、シリーズの中でも珍しい、「饒舌な金田一耕助」が楽しめます!

まとめ


シリーズ化された作品には根強いファンの存在がつきものです。しかしそのシリーズを終了し、そして新しいシリーズを発表したとき、それがファンに受け入れられるかどうか・・・作家にとってはとても心配なことでしょう。

読者や視聴者が、新しい登場人物に「感情移入できるか」にかかっていると思います。私は「金田一耕助シリーズ」を順不同に読みましたが、この「黒猫亭事件」を読んで、「これは初期段階の作品なのかな?」と思い、シリーズの順番を調べて納得しました。由利先生が去って、まだ1年をすぎたばかりの作品だったのです。「みなさん、金田一耕助をよろしく!」というメッセージが聴こえてくるようでした。

「『もうすこし、ぼくという人間を、好男子に書いて貰いたかったですな』はっはっは、と笑って(略)これで要するに、私たちはすっかり打ちとけたのであった。」この文章によって、往年の由利麟太郎ファンの気持ちも「打ちとけた」のではないかと思います!


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