今回は短編小説「湖泥」のご紹介です。このところ、デザイナーやバレリーナが登場する現代的な作品のご紹介が続きましたので、少し雰囲気を変えてみました。今回ご紹介する「湖泥」は、農村を舞台にして、「田舎」や「旧家同士の争い」を描いた作品です。横溝正史の「田舎の話」がお好きな方なら、表紙をめくった瞬間に物語に引き込まれること間違いなし!です。
冒頭から「田舎の怖さ」を磯川警部がじっくり語って聞かせてくれます。湖を眺め、たばこを吸いながら金田一に語る磯川警部のセリフは、「田舎作品大好き」の私のハートを鷲掴みにしました。でも、いつもの「田舎編」よりもトゲトゲしい雰囲気がありました。旅の途中で磯川警部を訪ねた金田一の「再会を喜ぶシーン」が描かれてないからかもしれません。
「田舎では、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまもなおヴィヴィッドに生きている。当人同士では忘れようとしても、周囲の者が忘れさせない。」磯川警部のこのセリフ・・・「獄門島」や「八つ墓村」に関わった、“古狸”ならではの名ゼリフです。ここまでリアルに、そして簡潔に「田舎の禍々しさ」を表現するセリフがこれまであったでしょうか!?
この「湖泥」が書かれた時期から、横溝作品の傾向は「通俗小説」へと変化し始めます。横溝の感覚的にも「田舎の怖さを“一旦まとめた”作品」なのかも知れません。「本陣殺人事件」や「八つ墓村」、「獄門島」と比較すると、この作品はとても「あっさり」しています。これは「短編で字数が少ない」というのもありますが、その分深く味わい尽くすことができます。
この作品の見どころ
「田舎作品にツキ物」の人間関係のゴタゴタも、見どころの1つです。横溝正史の描く「田舎編」には「因習」や「怨恨」といった、独自の「負の要素」が欠かせません。これを欠いてしまうと「快楽殺人」や「猟奇殺人」になってしまいます。このような「歪んだフェティシズム」や「異常性」を描いた作品の多くは「都会」が舞台になっています。
横溝正史は「田舎の殺人事件」と「都会の殺人事件」をきっちりと書き分けています。キスマークを集めたり(悪魔の百唇譜)、青いトカゲを死体に描くのは(夜の黒豹)、田舎にはしっくりきませんよね。(そもそも、キスマークが集らないでしょうし、トカゲを描いても、さほど騒がれそうにありません。)都会で起きるからこそゾッとさせられる「都会ならではの殺人」があるのです。
作品の中に、田舎と都会の間にある「闇」を表すような金田一のセリフがあります。「(犯人に事件を起こさせたのは)都会人の狡知ですね。」「農村へ都会のカスがいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね。」確かに、田舎には、田舎ならではの「闇」があります。大きな変化がない限りは表面上の平和と秩序は保たれます。そこに種類の違う「闇」を持った都会人が交わることで、また別の「闇」が生まれるのではないでしょうか。
この作品の、もう1つの見どころは、「インヴィジブル・マン(見えない人)」の存在です。「見えない人」とは、姿が見えないだけではありません。あなたの目の前にいる人は、本当にあなたが思っている「その人」ですか?あなたが思い込んでいるだけで、実は「見えない誰か」である可能性はゼロではありません。こんな疑いの目を、登場人物たちに向けながら読むとより楽しめる作品だと思います。
あらすじ
山間にある僻村で、北神家と西神家の勢力争いが続いていた。もともとは同じ「神田家」であったが、分かれた理由を知る人はいない。両家には、それぞれ妙齢の跡取り息子がいた。北神浩一郎と西神康雄、同い年の彼らは、村で評判の美しい娘・御子柴(みこしば)由紀子を巡って争っていた。
御子柴家は、終戦まで上海に身を置いていた、いわば「引き揚げ者の一家」である。着の身着のまま日本に戻ってきた御子柴一家の面倒をみたのは、康雄の実家・西神家であった。その西神家の息子である康雄を尻目に、由紀子は北神家の息子・浩一郎と結納を済ませた。
「西神家に面倒を見てもらっている」といっても、実際の御子柴一家の扱われようは牛馬のような酷いものであった。自分たちを虐げ続けた西神家に仕返しするかのように、由紀子の母は北神家と西神家を両天秤にかけた。いったんは西神家に由紀子を嫁がせると見せかけながら、結局嫁ぐのは北神家であった。西神家の怒りが頂点に達し仕返しを考え始めた矢先に、由紀子が忽然と姿を消した。
磯川警部が率いる警察や地元の青年団が捜索を続けているが、失踪してから5日が経った今でも由紀子は発見されていない。調べが進む最中、磯川警部を尋ねてきていた金田一がたくさんのカラスが騒いでいることに気がつく。ただならぬ気配を感じた金田一と磯川警部は、やがてカラスが集っている小屋を発見する。
小屋は黒々と集る無数のハエが羽音をたて、異様な臭気を放っている。開けた扉の奥では、由紀子が全裸姿で息絶えていた。その由紀子の左目は何者かによって奪われ、ぽっかりと大きな穴が開いていた。くりぬかれた眼から血が流れていないことから、由紀子の左目は義眼だったと判明する。
同じ頃、村では村長の後妻・秋子が姿を消していた。後日、秋子は赤土の中から遺体となって発見された。秋子の亡骸が埋められていた赤土には、事件解決の糸口になる「義眼の痕跡」がクッキリと残されていた。村長の妻と、由紀子を殺害したのは同一人物なのか?なぜ由紀子と秋子は殺されたのか?金田一は「3人の村の男たち」に、すでに目をつけていた。
ボヤかない、金田一耕助
あちゃー・・・金田一さんせっかく旅行に出かけたのに、また事件に巻き込まれてしまいました。これはすっかり「お決まりのパターン」ですが、金田一さんは慣れてしまったのか、一切文句を言いません。「悪魔の手毬唄」では、事件への介入を促す磯川警部に、「いけません、警部さん。ぼくはなにものにも煩わされずに、ただ休養を・・・」とボヤきました。
今回は、そんな「ぼくの休養はどうなる!」という嘆きの描写が一切ありません。最初から「当たり前」のように介入しています。短編だから、無駄な描写を省いたのかしら?という現実的な解釈は置いておいて・・・。「どこでボヤき出すかな?」と思って読みましたが、最後までボヤきのシーンはありませんでした。
言葉攻め!金田一耕助
今回、金田一耕助は巧みな話術を駆使します。取り調べ中、言葉のワナを仕掛けるんですね。結局犯人は、その言葉のワナに捉えられます。「きみは狡猾な男だね。きみみたいな狡猾なやつに出会ったのは初めてだよ。」と犯人に言いますが、狡猾さという点では今回の金田一、ヒケを取りません。この作品では2度も言葉のワナを仕掛けています。今回の作品の金田一は、いつものニコニコ探偵ではありません。少し口調が荒いというか、とにかく容赦ないのです。なにかに対する、怒りに似た気持ちを持っているのかもしれません。
「インヴィジブル・マン」に潜む真実
「あいつはいわゆるインヴィジブル・マン、すなわち見えざる男だったんですね。」これは事件解決後、犯人を分析したときの金田一のセリフです。「見えざる男」という言葉だけを聞くと、「自ら姿をくらました犯人」を想像しますよね。実は、この言葉の奥底には「無関心」という人間の心の冷たさが潜んでいます。犯人は「人々から見えなかった」のではなく、人々が犯人を「見ようとしていなかった=“人”として数えていなかった」のです。同じような寂れた農村を描いた、岩井志麻子氏の「依って件(くだん)の如し」という作品でも、「人として数えられない“人”」が登場します。これの影響もあってか、「湖泥」は私にはとても恐ろしく感じられる作品となりました。
まとめ
久しぶりの「田舎」作品のご紹介でしたが、何度読んでもやっぱり怖いですね。短編の場合は、金田一の可愛らしい部分も登場しないので「心の拠り所」みたいなのが欲しくなりました。1本だけでもいいから、どこかで金田一がホワイトアスパラを食べるシーンが欲しかったです(笑)。
この作品を、「探偵小説の良さがない」と酷評する人もいるようです。これに対して私は、ここで横溝正史は探偵小説を書きたかったのではない、と主張します。すべての「田舎編」に共通している「闇」を暗示したかったのではないか、と思うのです。金田一のセリフがいつもより冷酷で攻撃的に感じられるのは、そのためではないかと考えます。
殺された由紀子は、「引き揚げ者」として西神家から「牛馬」のように扱われて育ちました。「湖泥」の中ではこの「牛馬」という単語が繰り返し使われていますが、これは単なる比喩の1つではないと私は思います。「湖泥」という作品名も、湖の奥底に堆積する「黒く冷たい泥」と、人の心の中の「底知れぬ“泥のような”不気味さ」を掛け合わせているのではないでしょうか。
『貸しボート十三号』(『湖泥』収録)