先月、山梨県山梨市内にある「横溝正史館」を訪ねてまいりました。山梨県は、ブドウやモモの産地です。現地で収穫したブドウから造られる甲府ワインは、和製ワインの代表格ですよね。横溝正史の記事なのに、どうして冒頭からフルーツの名前が飛び出すのかといいますと・・・。
「横溝正史館」は、山梨市内にある「山梨県笛吹川フルーツ公園」の敷地内にあります。果実の香りが郁郁と漂うフルーツ公園の中に、あの恐ろしいお話「八つ墓村」の作者の記念館が建っているのです。
木造平屋建ての「横溝正史館」は、一見すると「古民家カフェ」や「陶芸教室(直売所)」にしか見えません。横溝ファンとしては、もっとしっかりと宣伝して欲しいものです。金田一耕助やスケキヨなど、名キャラクターたちをモチーフにした看板の1つでも立てて欲しいと思います。
■ 目次
なぜ「横溝正史館」が山梨県にあるのか。
「どうして山梨県に記念館が設立されているの?」横溝正史ファンの中でも、ここに疑問をもつ人が多いようです。幼少期を神戸で過ごし、江戸川乱歩と出会って東京へ。戦渦が激しくなってきたときには岡山県に疎開。これがもっとも有名な横溝正史のエピソードです。
横溝には、病に伏した時期があります。呼吸器疾患のため、きれいな空気の元で療養生活を送ることを余儀なくされました。その転地療養した場所が、山梨県、のお隣・長野県だったのです。「山梨県あんまり関係ないじゃん!」と思う方は、次のエピソードをお読みください。
東京に住んでいた横溝は、療養先の長野県上諏訪温泉まで汽車で通っていました。重度の乗り物恐怖症だった横溝にとって、長時間汽車に乗ることは苦痛以外なにものでもありませんでした。苦痛がピークに達すると、汽車を途中で降りて気分転換を図りました。その途中下車したところが「笛吹川」だったのです。
乗車中は奥様に手を握ってもらい、時にはお酒で気を紛らわすほど横溝は汽車が苦手でした。山梨県を流れる笛吹川の一帯は、デリケートな横溝の心を優しく慰めた、切っても切れない縁ある土地なのです。
*「横溝正史館」は東京の執筆場所を、そのまま移築したものです。
この建物は、昭和30年ごろから横溝が亡くなる昭和56年までの間、書斎兼執筆場所として使われていました。(東京・成城の自宅の敷地内に建てられていた別の建物です。)横溝亡き後、一時期は解体の計画もあがりました。
しかし、やはり昭和の文豪の愛した建物です。保存を願う関係者によって移築計画が始まりました。横溝と親しい山梨市出身の出版社仲間の働きかけもあり、この場所に移築することが決定したのです。
実際に横溝が愛用していた机です。机の上には硯箱や灰皿が置かれています。赤いサイン帳には「もっと先生の作品が読みたかったです。」「先生のお陰で本が好きになりました。」といったファンからの熱いメッセージが書かれていました。
ちなみに、施設管理人の方から「どこの写真を写してもらっても構いません」とお許しを得て撮影しておりますのでご安心ください。(サイン帳は個人名が写っているため、目隠しさせて頂いております。)
広い展示室は、当時○○として使われていました。
横溝正史館は、家屋の造りをしています。展示品の数は多くはありませんが、横溝正史の書いた書や若かりしころの写真、江戸川乱歩と交わした手紙などの貴重な品を見ることができます。
部屋の右側の壁一面には、映画のポスターがパネル展示されています。左側には、当時の横溝正史の姿を写した白黒写真が展示されています。写真は大変興味深いものばかりです。40代頃の横溝正史の姿や、メイキング風景までが惜しみなく展示されています。
このお部屋、日本家屋の一部屋としてはかなり広く見えませんか?(※ノーマルレンズで撮影しています。)こんなに広い部屋を、横溝はどのように使っていたのでしょうか。その答えは、壁の白黒写真の中にありました。その中のごく一部をご紹介いたします。
*広い部屋は「書庫」として使われていました。
「やたらと広い部屋」の正体は、横溝の蔵書を納める「書庫」でした。この写真では3台の本棚が写っていますが、部屋の長さからするとさらに2台か3台くらいの本棚が並びそうです。まさに「自宅の中の小さな図書館」です。
どのような種類の本が蓄えられていたか、詳細はわかりかねますが、一番左の本棚に並んでいる本の大きさからすると、洋書が並んでいるように見えます。横溝の小説家人生に影響を与えたイギリスの小説家・アガサ・クリスティやディクソン・カーたちの本もここに並んでいたかもしれません。
写真の中で見る、横溝正史・中年期の写真です。公開されている横溝正史の近影としてはかなり珍しい写真です。当時の横溝は喀血を繰り返し、決して健康と言える体ではありませんでした。でも、この写真を一見するかぎりでは、あまり病人っぽく見えませんよね。
一見健康そうに見える横溝の姿は、彼の「散歩癖による日焼け」のせいと言われています。筆が進まないときも散歩に出かけ、嬉しいことがあっても散歩へ出かけました。疎開先の岡山では、散歩中に着物の帯を落としても気付かないほどの「お散歩男」だったのです。
展示ケースの中も、新しい発見がいっぱいです。
展示室には3つの展示ケースが並んでいます。その中には、横溝が遺した原稿や本が入っています。写真中心部の開いた本には、横溝の家族の写真も掲載されています。近年では手に入れることはほぼ不可能な、大変貴重な資料だと思われます。(本の題名がわからないのが非常に残念です。)
横溝正史の人生を振り返る上で欠かせないエピソードがいくつかあります。それを裏付ける写真がこの見開き2ページに掲載されています。
横溝正史の生涯を語る、7枚の写真
(右ページ)
右上:しっかり者の継母・浅恵さんと写る幼少期の姿です。家業である薬局の店先で、継母と並んで座った思い出を「自伝的随筆集」の中で語っています。
右下:横溝の実父です。生みの母・はまさんと駆け落ちして神戸にやってきたというお父さん、なかなかの男前です。
左上:薬剤師を志し、大阪薬専を受験するころの横溝です。義兄弟から「おまえだけ不細工だ」と苛められたそうですが、お父さんに似たなかなかのイケメンだと思いませんか?
左下:横溝の結婚式の写真です。奥様を結婚相手に選んだのは、「猫好きな女性だと思ったから(※実際はそうでもなかった)」だそうです。
(左ページ)
上:探偵趣味出版記念会の団体写真です。この写真の中には江戸川乱歩(前列左より4人目)と並んで写る横溝正史(同5人目)の姿があります。生涯のライバルであり、親友であった乱歩とはいつも一緒だったんですね。
右下:長男・亮一さんと長女・宣子さんとのワンシーンです。お子さんたちとのエピソードは自伝で時おり登場しますが、画像としては初めて見る横溝の「父親の姿」です。
左下:療養先の上諏訪で写したトマト園での風景です。
江戸川乱歩からの手紙もありました。
江戸川乱歩から、横溝正史に宛てた手紙(修正後)も展示されていました。「そのうち(東京の自宅に)遊びにいきたいと思います!」と言う言葉で締めくくられていることから、乱歩と横溝の間にある確かな友情が感じられます。
乱歩から横溝の長男・亮一さんに宛てた珍しい手紙も公開されていました。幼いころの亮一さんは、乱歩とかわいらしい文通をしていたようです。乱歩が送ってきた手紙の、幼い子でも簡単に読めるやさしい文章と、ワクワクしてしまうような内容(さすが文豪!)に引き込まれ、写真を撮るのを忘れてしまいました。
「自伝的随筆集」の中に乱歩が書いた亮一さん宛ての手紙の全文が紹介されています。亮一さんを「亮ちゃん」と呼び、自分のことは「江戸川のおじさん」と書いています。手紙の全文を本の中で紹介するほど、横溝は乱歩の思いやりに感謝していたことが分かります。
「おてがみありがとう (中略)おじさんはこどものてがみがすきですから なんどもなんどもよみました。」と、普段の作品から見える姿とは一味違う乱歩の姿も、ここで感じることができました。
亮一さんに電車のおもちゃを送ったり、亮一さんが1人で書いた手紙に「100てんあげますよ」という返事を送るなど、小まめで優しい江戸川乱歩の意外な姿に、都会の日常ですさみきった私の心もすっかり和まされました。
横溝正史の名言を発見!
「謎の骨格に論理の肉附けをして浪漫の衣を着せましょう 正史」横溝正史のありがたい教えの書です。横溝が生み出した作品は、それぞれ独特の強い個性をもっています。構成が類似している作品でも、伝わってくる温度や起きる感情はまったく違います。
横溝正史の根強いファンたちは、この「浪漫の衣」に包み込まれた人たちなのです。一度取り込まれたらクセになる、横溝の作品には「浪漫」という名の力が潜んでいます。
もちろん、重きを置いたのは「浪漫」だけではありません。「出来るだけ論理的な本格探偵小説を書いていきたい」「動きの少ない、論理の綾だけに興味の中心を置いた探偵小説が多くの人々の支持をえようとは思いもよらぬところであった。」(いずれも自伝随筆集より)の言葉からも、浪漫の礎となる「論理」に強く執着していたことがわかります。
横溝正史・直筆の原稿用紙たち
これは「獄門島」の原本です。(他にも「八つ墓村」や「犬神家の一族」の原稿もありました。)昭和22年(当時45歳・岡山疎開中)当時のままの、「直筆の原稿」です。当然ですが、手にとって見ることはできません。この写真では直筆の感動が伝わってきませんので、ガラスケースに貼りついて、できるだけ鮮明でリアルな写真を撮ってみました。
(天井のライトの光が、ガラスとクリアファイルに反射するので、写すのに苦労しました。)
「獄門島」の中の重要なワンシーンが書かれています。「第二十一章」と書かれていますが、単行本では第6章にあたります。「獄門島ファン」ならこの一文でどこのシーンのことかお気づきかもしれませんね(金田一が分鬼頭・鬼頭儀兵衛の家を訪ねたときのシーンです)。
原稿では「“一滴”の玉露の」という言葉が、書籍では「“ひとたらし”の玉露の」に書き換えられています。この「ひとたらし」という表現についてですが、「玉露のような舐めるように味わう高級なお茶に対するぴったりの表現だなあ」と、私の頭の中に残っていたフレーズでした。
横溝正史の愛した調度品たち
執筆場には、2台の飾り棚が置かれています。左側の飾り棚の奥に、横溝が愛用した扇風機が写っています。ウソです。館内はエアコンがありませんので、扇風機を使っています。棚に飾られているものをご覧ください。スマホと紙コップが置いてあります。こちらは、館内の管理員さんの私物だと思われます。
スマホと紙コップが、昭和の文豪の使用した調度品にさらっと置いてある、ある意味いい加減な雰囲気が面白くて、あえてこの写真を選択しました。横溝本人も「ただ調度品だけを写すより、時代が合わないスマホのようなものがあったほうが面白い」と言ってくれるような気がします。
「父 横溝正史を想う 平成十九年三月二十四日 横溝亮一」執筆場の右側に置かれた、もう1つの飾り棚の上には、長男・亮一さんの言葉が飾られています。亮一さんは、早稲田大学を卒業後、東京新聞・音楽担当記者を経て、後に音楽評論家として才能を発揮されました。経歴からも父・横溝正史の才能を余すところなく引き継いでいることが分かりますね。
「横溝正史館」の設立一周年記念式典では「父・横溝正史を語る」という題目で講演をされています。2015年の2月、亮一さんもこの世を去り、横溝親子のエピソードを聞く機会がまた1つ減ってしまいました。
執筆場の奥には、火鉢が置かれた客間があります。編集者の方はここで待機させられたのでしょうか。猫好きで、作家仲間から「(横溝宅には)猫がうじゃうじゃいる!」とまでいわれた横溝ですから、この部屋でのんびりと寝ている愛猫の姿を眺めたのかもしれませんね。(※横溝は「うじゃうじゃっていうけど、うちには猫は1匹しかいないよ!」と自伝で反論しています。)
横溝氏正史にまつわる本が並んでいます。どれも手にとって読むことができます。中には「こんな本が出ていたとは!」と驚かされるものもありました。最近出版された本も並んでいますので、新しい本を買う時の参考になると思います。
横溝正史の本は、いろいろな形で出版されています。新品が手に入りにくい作品もたくさんあります。特に、加筆修正して新たな作品に仕立てたその原本となった本は、なかなか見つけられません。私もここで手元におきたい1冊の本を見つけましたが、インターネットで探しても見つかりませんでした。
「横溝正史館」を10倍楽しむ秘訣!
最後に、この施設を10倍楽しむ秘訣をお伝えしておきます。施設に文句をつけるわけではありませんが、展示物に関する「説明」や「コメント」がほとんど付けられてないので、横溝正史をあまり知らない人の場合はまったく面白くないかもしれません。ある意味では、予備知識を必要とする施設だと言えます。今回の記事の何箇所かに引用した「自伝的随筆集」のような、「横溝の人生にスポットを当てた本」を一読してから訪ねることをオススメします。逆に、小説を読み漁っていく必要はありません。作品自体よりも、横溝本人の人生にスポットを当てた施設だからです。
横溝正史の書いた随筆集はどれも面白く、声を出して笑ってしまうようなエピソードがあります。岡山でも、信州でも、東京でも、多くの人から愛された横溝正史の人柄を知ってから訪ねると、もっと良いと思います。
まとめ
岡山県にある「横溝正史記念館」は、横溝正史が家族と暮らした「家」です。これに対し、「横溝正史館」は自宅とは別に設けた「執筆の場所」です。田舎の因習をモチーフにした「岡山編」から、「通俗路線」へと変化させた場所でもあります。
時代の移り変わりや子どもの成長に合わせて住まいを変えた、横溝の足跡の1つがここにあります。山梨方面に行かれるときは、ぜひ一度足を運んでください。見たことがない横溝の横顔が見えてくるかもしれませんよ。
「横溝正史館」
【住所】
〒405-0043 山梨県山梨市江曽原1411-6
【入館料】
100円(中学生以下・70歳以上は無料)
【交通アクセス】
最寄りIC:中央自動車道「勝沼」IC
最寄り駅:JR中央線「山梨市駅」
最寄りのバス停:市営バス「フルーツパーク」
【営業日】
土・日・祝日(年末年始は除く)
※臨時休館する可能性もありますので、ご注意ください。
【営業時間】
10:00~15時(入館は14:45で締め切り)
【問い合わせ先】
山梨県生涯学習課 根津記念館担当
TEL:0553-22-1111
FAX:0553-23-2800