「この話、一度読んだ気がする。」これは、作品を読み始めて感じた、私の正直な気持ちです。読み進めながら「読む本、間違っているのかも?」とブックカバーを外して、題名を確認したほどでした。横溝正史作品を何冊も読んでいますと、ときどき本の内容が頭のなかでごっちゃになって、「すでに読んだような感覚」に陥ることがよくあります。
横溝作品では、登場人物に同じ名前が付けられていることがしばしばあります。女性の名前では「早苗・朱美・鮎子・田鶴子」、苗字では「風間・加納・一柳・志賀」という名前の人物が何度も登場します。今回の作品では「早苗」と「田鶴子」、そして「加納」が登場しました。最初から「早苗」が登場してしまったことで、私の頭はさらに混乱してしまいました。
しかし、似ていたのは登場人物の設定だけでした。徐々に見えてくる“殺人の動機”が異なるものだったので、最初に抱いた不安は消え去りました。そもそも探偵小説の大御所・横溝正史が、そんなミスをするわけがありません。類似していると見せかけて・・・全く別の作品に仕立て上げた、横溝正史の筆力を甘く見てはいけません。
今回のヒロインは、バレリーナ・古館早苗です。幼いころに母を亡くし、父親に育てられました。娘を愛する考古学者の父・古館博士が、早苗に求婚する3人の男たちに、あるユニークなゲームをさせて、勝負に勝った人を早苗の婿にするというお話です。
探偵小説を読みなれている方なら、この時点でピンとくるでしょうか・・・。その3人の男たちは、全員何者かに殺害されます。3人とも死んでしまうということは・・・ありがちなパターンの「早苗の婿の座を争って、お互いの命を狙い合う」という展開ではありませんよね。
この作品の見どころは、「殺害の動機」です。もし、早苗との結婚を妨害したいというのなら、ゲームに勝った1人だけを殺害するほうが、犯人にとっては合理的な方法であり、何より安全な方法です。わざわざ3人とも殺害するのは、「3人とも殺害する必要があった」ということになります。
早苗の父・古館博士は、3人の男から婿を選ぶことに最後までこだわりました。いずれも素行の良い人柄とは言えない後ろ暗さのある人物ばかりです。この3人が全員殺された理由は、最後に明かされます。3人に対する思いが高じて、それは熱い炎から冷たい闇へと変わったような・・・そんな理由です。
夫の座を狙う3人の男
冒頭で、「どこかで読んだことがある」と私が感じた作品(作品名を「X」としておきます)も、3人の男が1人の女性の夫の座を狙うというストーリーでした。そこが「死神の矢」と「X」に共通している設定です。3人の男は、どちらの作品でも、素行が悪くその描写も「チャラ男」「肥満」など、女性からすれば「こんな男絶対イヤ」と言いたくなる人物像です。ちなみに「X」には、ナイト役の男性が登場し、「この男とヒロインが結ばれて欲しい」という期待を読者に持たせましたが、「死神の矢」には早苗のナイト役は登場しません。これは「X」と「死神の矢」との大きな違いです。なぜなら早苗は、この作品の真実のヒロインではなく「脇役的」存在だからです。では、真実のヒロインとヒーローは誰なのでしょうか?これこそが、「死神の矢」の本質ではないだろうか、と私は考えます。
義理の○○・育ての○○
ザ・横溝正史の特徴の1つだと思うのですが。登場人物の家庭環境がやはり複雑です。両親ともに健在というパターンを目にしたことがほとんどありません。むしろ、「義理の○○」「育ての○○」の存在が多いです。今回の「死神の矢」のケースは「ママさん」と呼ばれる早苗の母親代わり兼、家政婦の女性が登場します。「ママさん」は、父・古館の愛人ではありません。ただひたすらに、早苗の世話係としての使命を全うします。「X」でも「家庭教師兼・教育係」の女性(ヒロインからは“先生”と呼ばれています)は、ヒロインをこよなく愛し、彼女の人生の全てをヒロインのために費やしました。
自分と血の繋がっていない人間に、親同等の愛情を注ぐ・・・それには相当の理由があるはずです。このような場合「愛する人の子だから」という理由が最もしっくりくるのですが「死神の矢」の“ママさん”も、「X」の“先生”も、その理由(=ヒロインの父を愛している)に当てはまらないのです。
“ママさん“も”先生“も、誰かを強く愛していました。その愛が、血の通わぬ間柄の人間を慈しむ原動力になっているのです。それこそが物語の大きなキーになります。誰を愛していたのか、(どうして「過去形」なのか)それは作品を読んでからのお楽しみです。
あらすじ
考古学者・古館博士には、先に逝った妻との間に残された「早苗」という一人娘がいる。早苗は美しく成長し、バレリーナとして売れ始めていた。古館博士の家には、博士と早苗の他に、早苗の家庭教師兼・世話係をつとめる女性が住んでいる。早苗はこの女性を「ママさん」と呼び、母親のように慕い育った。
妙齢の早苗に、3人の求婚者が現れる。少し変わり者として知られる古館博士は、3人の求婚者をあるユニークな方法で1人に絞る計画を立て、取り巻く人々の関心を集める。求婚する3人の男たちは、お世辞にも素行のよい者たちではない。いずれも裕福な家庭に育ってはいるものの、親の金を使って女遊びばかりしているような若者ばかりなのだ。
当然のように、早苗には彼らを受け入れる気はない。しかしどうしたことか、そのような3人の素行を知りながら、父である古館博士は3人の中の誰かから婿を選ぶことに強くこだわり続けた。
婿を選ぶ方法は、岸に立ち沖に浮かぶ一艘の舟に立てられた的を、矢で射落とした者を婿にするという「ゲーム」である。3人の中にこれまでに弓矢に興じた者はおらず、それは誰にとっても簡単なものではなかった。
決行の日、3人の花婿候補が集合し、それぞれ矢を1本ずつ与えられる。淡々とゲームは進み、2人は的を射ることに「失敗」してしまった。残された1人も、的を射抜くことが出来なければ「失敗」となり早苗を娶ることはできない。早苗の祈るような気持ちもむなしく、最後の1人が放った矢は、的を射抜いてしまった。
その日の夕方、一同は夕食を共にすべく博士の自宅に集まる。夕食の仕度が整うまでの間、一旦解散となり、シャワーを浴びたり、部屋で過ごしたりと各々自由な時間を過ごした。夕食の時間になり、一同が顔を突き合わせる中、1人キッチンに現れない者がいる。それは今日の婿選びゲームで「失敗」した1人であった。
心配した“ママさん”が部屋を見に行くと、浴室からシャワーを使う水音が聞こえてくる。ドアは施錠されていて開けることができない。やむを得ずドアのすき間を覗いた“ママさん”が目にしたものは、胸に矢が刺さって絶命しながら、シャワーに打たれ続けている無残な男の姿であった。
これがこれから起る連続殺人の幕開けとなることは、まだ誰も予想していなかった。次に殺害されたのは、意外にも先に殺害された男と同じ、婿選びゲームに「失敗」した、もう1人の男であった・・・。
美しくも悲しい「同情」がテーマです
すべての事件が終わったとき、真相1つ1つを、金田一は丁寧に関係者に伝えます。「どうして3人の求婚者が殺害されたのか」それを語るうちに、ある女性の悲しい過去に話が及びます。その女性はすでに自らこの世を去っており、彼女が残した「遺書」が、遺された人に「殺意」という気持ちを起こさせていたのです。
その女性は、遺書の受取人に対して自分の恨みを晴らして欲しい、とは一言も書いていません。また、自分を追い詰めた人物の名前も明かしていません。ただ「早苗さんに求婚している“3人の男のうちの1人”に注意してください」という警告を残していました。
その遺書を読んだ人は、悲しみのあまり「この上は、3人全てを殺害してしまおう」と企てます。その恐ろしい企ては、やがて人に気づかれてしまいます。企てに気づいた人は、「罪を犯させてはいけない」という気持ちで、企てを阻止すべく先手を打って立ち回り、自分が「殺人の実行犯」となりました。
さらに、「殺人の実行犯」となってしまった人を側で見守っていた人もいます。自ら殺人犯になろうとするその人の気持ちを汲み取って、捜査の目をかく乱させる行動を取り続けました。「“この人が”殺人を犯すのは、相当の理由があるに違いないと思ったのです。」と最後に自分の心情を語ります。
遺書を書いた女性が、どうして自ら命を絶ってしまったのか、その理由が判明するのは物語のラストです。その女性を取り巻いた人たちの持つ深い「愛情」と「同情」がこの物語の全てなのです。
金田一が泣くシーンがある!
クールな名探偵・金田一耕助もやはり人の子です。ある人に対する同情の気持ちが抑えられず、人前で涙を流します。あまりに寂しい「孤独」に対して金田一が泣く・・・こんなシーンはめったにお目にかかれません。同情が同情を呼んだ今回の事件でしたが、金田一もまた、彼らと同じように「同情」してしまったのです。
ちなみにこの「死神の矢」は、短編作品として発表されたものを長編化した作品ですが、短編では、この「金田一が泣く」シーンはありません。長編化で「泣いた」シーンを書き加えた理由は明らかにされていませんが、何かこだわりがあったのでしょうか。
トリックは難解、でもシンプルな作品
密室殺人や、疑わしい人々の登場、捜査をかく乱させる人物など、じっくりと読ませてくれる作品です。しかし、同情という「人の心情」が絡む、ややこしくなりがちな性質の物語としては、「シンプルな作品」と私は思います。心理的描写が多いので、そのような点では読み応えはありますが、探偵小説の「意外さ」「陰湿さ」は強いものではありませんでした。残念なのは、早苗の存在が「置いてきぼり」になってしまったことです。早苗はこの物語の主役ではなく、早苗を取り巻く「オトナたち」の事件だと初期段階で分かってしまいました。その「オトナたち」すべてが早苗を思って行動をとるわけではないので、早苗の存在意義が感じられない結末となってしまいました。
まとめ
「死神の矢」は昭和31年に出版された、シリーズでは34番目の作品です。舞台は神奈川県で、バレリーナのヒロインですから、都会的な作品という印象です。しかしながら、「花婿を父親が決める」とか「家政婦」などといった要素が「岡山編」と似た雰囲気をかもし出しています。
これ以降に発表される作品は、(当たり前ですが)現代に近づいていきますので、昭和の懐かしい雰囲気が薄れてきます。「岡山編」のファンとしては寂しくもあります。しかし、その時代をリアルに作品に投影する横溝作品からは、当時の日本人の生活、その移り変わりを感じることが出来ます。
今回の作品ではバレリーナの女性たちが登場しました。終戦から約10年、日本人がバレエを嗜んでいたなんて、この作品を読むまでは知りませんでした。復興の早さと、日本人の強さ(新しいものにすぐ飛びつく性質も!)を改めて感じた作品でした。
こんにちは。
>終戦から約10年、日本人がバレエを嗜んでいたなんて、この作品を読むまでは知りませんでした。
この点のみに指摘ですが、
バレエについては入力したURL先を読んで貰えばわかる通り戦前から盛んで芥川龍之介を感動させたそうです。
実を言うと日本人は明治維新以来、顕著な脱亜入欧であり、
特にアメリカとは非常な深い関係にありました。
そしてアメリカについてですが、
野球やハリウッド映画、ジャズなどアメリカ文化は憧れの的であり、
ベーブルースが来日した時は黒山の人だかりだったそうです。
日本が欧米と仲違いしたのは実は太平洋戦争とその数年前くらいで実際は戦前から非常に友好的で文化輸入も盛んでした。
たまら様
コメントありがとうございます!
運営者のshirokuroです。
たしかに明治維新以来そのような流れですよね。
URLもありがとうございました。
拝見させていただきましたが、バレエが日本に入ったのは1911年なのですね。
私は鹿鳴館でダンスを踊っているイメージが強く、その時代からバレエはあったのではないかと勝手に思っていたのですが、今調べてみると鹿鳴館が竣工されたのは1883年なんですね。バレエは意外と遅く入ってきたんだなと思いました。
私はこの記事の執筆者ではないのでなんとも言えないのですが、
記事では復興のことを言いたかったのだと思います。
ここ十数年の生活レベルの変わらなさを考えると、
焼け野原から10年でバレエというのは、劇的な変化のような気がします。