昭和35年に発表された「スペードの女王」は、77作品からなる本シリーズの中では64番目で、“後期”に位置しています。(昭和33年に発表された「ハートのクイン」を再編成した作品です。)死者数は6名で、比較的多くの殺人数を誇る(?)大作です。

最近、超初期の作品ばかりを取り上げていたこともあり、趣向を変えてみようと思い今回はこの作品を選びました。以前ご紹介した「黒猫亭事件」(昭和22年)は、横溝正史が興味をもっていた題材「顔のない死体」をモチーフにした作品でした。それから約12年を経て「顔のない死体」をテーマにしたもう1つの作品として「スペードの女王」が発表されました。

探偵小説では「顔のない殺人」は王道スタイルといえますが、「スペードの女王」の違うところは、単なる「首を切って被害者を入れ替える事件」なのではなく、2つの死体に同じ入れ墨が施されるという、もう1つのトリックが加えられた殺人事件です。

「黒猫亭事件」は、“顔を無くした”入れ替わり殺人の技法がとられていました。それは“片方が生き残るための”入れ替わり殺人でしたが、今回はどちらが殺されたか分からない(結局どちらも殺される)殺人です。

殺す目的である「誰をこの世から抹殺したいのか」が根本的に異なります。捜査をかく乱させるために入れ墨を入れたのか?最初から入れ替えを狙って入れ墨を入れたのか?読み手の頭を使わせる作品です。

■ 目次

時代背景を映し出す「勤労婦人」たちの姿


本シリーズには「女性」が必ず登場し、作品のカギを握ります。その女性たちの姿が初期と後期では大きく変化しています。

初期作品の「獄門島」や「本陣殺人事件」に登場する女性たちは「家を守る女性」です。
時代を振り返ると、「獄門島」は戦後間もない日本を描いた作品ですから、金田一も戦争から帰ったばかり(帰る最中)です。

日本は復興し、「スペードの女王」に登場する女性は何かしら「職業」に就いています。全員が「会社員」ではないものの、女性編集記者やタイプライター、看護師などといった「勤労婦人像」が登場します。

この事件を解決に導くヒントを金田一に与える女性記者・前田浜子が、編集社に出社した後に朝食をとるべく喫茶店に出かける姿がありますが、「獄門島」時代には考えられない姿です。

あらすじ


金田一耕助のもとに、1人の未亡人・坂口キクが相談に訪れる。交通事故死した夫・坂口亀三郎の死に方にどうしても納得がいかないという内容の相談であった。キクの話によると、夫が生きているときにキクが営むおでん屋を訪れた不審な若い女が、入れ墨師をしている亀三郎(彫亀)に、「自分の友達に入れ墨を入れて欲しい」と注文をしたという。その女が夫の死に関係している、とキクは疑念をもち続けていたのである。

不審に思いながらも引き受けてしまった彫亀は、後日女の用意した部屋に誘拐されるように連れ込まれ、ほぼ監禁状態の中入れ墨を彫らされた。そこで指示された入れ墨は、その女の内股に入れられたトランプの「スペードのクイン」。それと全く同じ入れ墨を、薬で眠っている別の女性にも入れろというのが女の注文であった。

しぶりながらも女からの指示通りに入れ墨を施し、3日後ようやく自宅に戻った彫亀は
「あの女はばかだ。そっくり同じにできたと満足していたけれど、おれが見ればすぐにわかるんだ。」と、入れ墨に密かな仕掛けを残してきたとキクに話し、その後まもなくして交通事故死を遂げた。

神奈川県・片瀬海岸に若い女の変死体が浮かんだ。その女には首がなく、内股にスペードのクインの入れ墨が施されていた。 警察の調べが進むうち、死体の女と全く同じ入れ墨をしたもう一人の女が行方不明であることが発覚する。殺されたのは、2人のうちどちらの女なのか・・・

死ぬ直前・行方不明になる直前に、2人の女性は身近な人にわざと入れ墨を見せつけるような行動をとっている。これから起きる首なし殺人事件を予測していたのか。お互いに同じ入れ墨が入れられていることを知った上でとった行動なのか。果たして、彫亀が遺した「入れ墨の仕掛け」は事件解決のカギとなるのか?

金田一を狙う犯人像から見えるもの


今回金田一耕助は、自宅前まで犯人が訪れるという危険な目に遭います。しかも犯人はピストルを持っている危険人物です。自宅とピストル・・・シリーズ初期の時代と比較すると、なんて近代的な犯人像でしょう!

シリーズ初期の犯人は、俳句に見立てて死体を逆さに吊るしてみたり、琴の弦を殺人に使ってみたり、お寺の鐘をどうこうと、今では懐かしいグッズを使用していました。金田一の住まいも、初期では人のうちを間借りしていたのに、今では「事務所兼自宅」を持っています。(賃貸ですけどね。)

初期作品から後期作品へシフトしてみたら、金田一を取り巻く環境が一気に近代化してしまいました。「夜歩く」の作中では、歩きつかれた金田一ったら「牛車」に乗せてもらっていましたが、本作品では車しか登場しません。遺体の発見現場も、「鐘の中」や「湖」、「滝つぼ」ではなく「車のトランク」です。(岡山と東京では近代化のスピードが違って当たり前ですけれど。)

それなのに、金田一耕助の服装は一向に変わりません。初期作品の「蝙蝠と蛞蝓」(昭和22年頃)の作中でも「いまどきこんな格好した人いないぞ!」と登場人物から失笑されているのに、昭和35年になっても着物と下駄姿です。(筆者の父は、当時11歳です。もう少し幼い日の写真でもセーターとズボンを着用しています。祖母も洋服です。)

リゾートを楽しむ人々の姿


作中、登場人物たちが連れ合ってリゾートにある海沿いの別荘地で生活を楽しむ姿が描かれています。集まった人はシネマ女優のタマゴであったりモデルであったりと実に華々しい様子です。

ほんの十数年前、食うに事欠くようだった戦後の様子から考えると、日本の復興の早さに感心するばかりです。もちろんこのような贅沢な生活を誰しもが持てたわけではありません。女性自ら高級車を運転し、派手な水着を着て、シネマ女優を志す・・・。

小説の中の姿とはいえ、“女性たちの強さ”を讃えたい気持ちが起きるのは私だけでしょうか。(戦争を知らない私が軽々しく言ってはいけませんが・・・。)

まとめ


この作品中には「オンリーさん」という当時の女性の辛い人生が描かれています。作中では、殺されてしまった女性の“前歴”として描かれました。「オンリーさん」とは、占領下にあった日本に逗留していたアメリカ軍の下士官たちの「現地妻」的存在の日本女性のことです。

専属の女性、という意味で「オンリーさん」と呼ばれました。「オンリーさん」たちの中には、本当の恋愛に至り、アメリカに連れて帰られた人もいたようですが、それはほんの一握りでした。生活の糧を失い、1人残されたあと、どうやって生きていくか路頭に迷う女性も数多くいました。

作中では登場する女性が「オンリーさん」から足を洗い、アメリカ人との生活の中で身につけた英語力やタイピングのスキルを生かして、勤労婦人を志す姿も描かれます。横溝正史としては、当時のありのままの姿を描いているので「未来の人へのメッセージ」を込めたつもりはないでしょうけれど、今の時代に生きている私たちがどれだけ恵まれているかを考えさせられる作品でした。