チャイコフスキーの親友であるルビンシテインが曲の終わりを告げる最後のタクトを振り上げた瞬間、会場には割れんばかりの拍手と「ブラボー!」「ウラ―!」という歓声が響き渡りました。多くの人たちが涙を流しながら叫んだ「ウラー!」という言葉。これはいったいどんな意味なのでしょうか?

今回は元オーケストラ団員トランペット奏者の私が、その秘密と大きな関係のあるチャイコフスキーの『スラブ行進曲』について解説をしていきます。チャイコフスキーのロシア人としての誇りと熱い思いが込められたこの一曲。あなたもぜひ聴いてみてください。
 
チャイコフスキー スラブ行進曲


ピュートル・イリイチ・チャイコフスキー

チャイコフスキーは1840年ロシアのヴォトキンクスに生まれました。ヴォトキンクスはカザフスタン共和国と国境を接する静かな町です。

チャイコフスキーはリズムの天才と呼ばれその音楽的才能は多くの優秀な音楽家の中でも評価を得ていますが、実はチャイコフスキーの両親は彼を音楽家にする気など全くありませんでした。

偉大な作曲家の中には類い稀なる音楽的才能がありながら、両親がそれに気づかない場合も多いと思います。ドボルザークの両親もドボルザークを肉屋さんにしようとしていましたね。

チャイコフスキーは幼少期の頃から音楽の才能がありましたが、10歳でサンクトペテルブルクの法律学校へ入学します。その4年後最愛の母親をコレラで亡くすなど人生の悲劇にも見舞われますが、彼は19歳までこの学校に通い見事卒業を果たします。

その後は法務省で勤務。実は彼はエリート中のエリートだったのです。それでも彼自身は全く仕事にやる気なし。本当はこの頃からずっと音楽の道に進みたかったのかも知れません。

21歳の時に妹のアレクサンドラがウクライナのカーメンカに領地を持つ大貴族の家に嫁ぎます。このカーメンカは多くの教会が立ち並ぶ自然豊かな土地で、チャイコフスキーはすっかりこの土地が気に入ったそうです。それから数年後彼はこの地で多くの曲を作曲するようになります。

チャイコフスキーはこの妹と仲が良かったとされ、妹のアレクサンドラは生涯兄の味方をし、彼を応援し続けたと言います。妹の嫁ぎ先で作曲をするくらいなので、チャイコフスキーも妹のことを大事に思っていたのでしょう。

妹がカーメンカに嫁いだのと同じ年、チャイコフスキーはサンクトペテルブルク音楽院に入学します。それから2年間は仕事をしながら音楽院に通うという生活を続けます。このサンクトペテルブルク音楽院は作曲家のアントン・ルビン・シテインによって創設されたロシアの名門音楽院です。チャイコフスキーは学校の一期生として入学しました。

23歳の時チャイコフスキーは本格的に音楽活動をするために法務省を退職します。その後帝国ロシア音楽協会のモスクワ支部で教鞭をとるようになります。その後はモスクワ音楽院に移動。理論講師として12年間働いたと言います。

28歳でムソルグスキーやリムスキー・コルサコフなどのロシア5人組と交流を持つようになってからは、作風ががらっとロシア風に変わり、特にそれ以降に作曲された後期の交響曲・バレエ曲・協奏曲は現代でも人気となっています。

一般的に作曲家は高等教育で音楽教育を受けるのですがチャイコフスキーは法律学校を出て就職してから音楽院に入学した異色の経歴の持ち主だったのです。ちなみに彼はサンクトペテルブルク音楽院を卒業する際に銀メダルの成績で作曲科を卒業しています。

『スラブ行進曲』

スラブ行進曲は1876年、チャイコフスキーが36歳の時に作曲されました。


当時セルビアのキリスト教徒がオスマン帝国軍によって多数殺害されるという事件が起こりました。チャイコフスキーはロシア人として同胞のスラブ民族の痛ましい事件に胸を痛めます。そんな中ピアニストのニコライ・ルビンシテインがチャイコフスキーに犠牲者の追悼演奏会で演奏する曲の作曲を依頼したのです。

作曲を依頼したニコライ・ルビンシテインはチャイコフスキーが21歳の時に入学したサンクトペテルブルク音楽院の創設者であるアントン・ルビンシテインの実の弟。ニコライ・ルビンシテインとチャイコフスキーは親友でもありました。のちにニコライは『スラブ行進曲』の初演で指揮を担当します。

親友に追悼のための作曲を依頼されたチャイコフスキーはなんと5日間で『セルビア=ロシア行進曲』という『スラブ行進曲』の原型となる曲を作曲します。チャイコフスキーはこの曲にセルビア民謡のモチーフと、ロシア帝国国歌のメロディーを盛り込みました。

序盤で奏でられるファゴットとビオラの葬送行進曲風の悲しげなメロディー。中盤で戦争の恐ろしさと煮えたぎるような怒りを表現し、終盤ではロシア帝国国歌のメロディーが民族の誇りを力強く称える――そんな一曲です。

演奏者目線で曲を聴いてみよう


私にとってこの『スラブ行進曲』は思い入れの深い曲の一つです。私はトランペット第一奏者として演奏しました。今でもこの『スラブ行進曲』を聴くと自分がオーケストラのメンバーとして音楽を奏でた時の誇らしい気持ちを思い出します。この気持ちはもしかしたらチャイコフスキーが表現した民族の誇りの気持ちと似ているのかも知れません。

まず注目したいのが3:59から始まる軽快なクラリネットとファゴットのメロディー。それが4:18でピッコロフルートにバトンタッチされます。私は個人的にここのホルンの裏打ちが好きです。ホルンは金管楽器なのに木管楽器のような優しい音色も出せて、バリバリ金管楽器のトランペット奏者の私は密かにホルンに憧れていました!

そんなトランペットですがこの曲では出番がたくさんあります。『スラブ行進曲』はメロディーがキャッチ―で音域もそんなに広くなく吹きやすい曲だったのですが、音を外しやすい難関がありました。

それは4:36のトランペットのソロ。ミミミミーミミミラ!(共にフラット)――これはどちらも同じ1番ピストンを押して吹きます。指を変えずに低い音から高い音へ飛ぶとき。これが一番音を外しやすいんです。

トランペットは唇を振動させながら口を緩めると低い音が、口を締めると高い音が出ます。締めていた口を緩めるのは比較的簡単で、緩めていた口を締めるのは難しいのです。そのためこの部分のソロは音を外さないか、のびのびとした音で吹くことが出来るか、毎回ドキドキしていた箇所でした。

さて、ロシア帝国国歌はどこに出てくるのでしょうか?分かりやすいのは8:30のトロンボーンの箇所。こちらに実際のロシア帝国国歌の動画を貼りますので聞き比べてみてください。全く同じですよね。チャイコフスキーの愛国心がひしひしと伝わってきます。

ロシア帝国国歌「神よツァーリを護り給え」



最後に個人的なこの曲の聴きどころをご紹介します。聞きどころはやはり8:00から始まる終盤。先ほど紹介したロシア帝国国歌もここに含まれていますね。軽快なティンパニに8:10のホルンのソロ。8:24のトランペットのファンファーレも最高にかっこ良いです。

この終盤では打楽器もフル稼働で活躍します。打楽器はただ叩くだけで簡単そう・・・なんて思う人もいるかもしれませんが、実はとても難しいんですよね。一寸の狂いもなくシンバルを当てることも至難の業ですし、打楽器は音が大きいので失敗したら一巻の終わりです。どの楽器もそうですが、失敗へのプレッシャーに関して打楽器は特に大きいです。

こぼれ話

私はこの『スラブ行進曲』を練習していた時に面白い練習法でこの曲を練習しました。それは「自分のパートをアカペラで歌う」という練習法。自分のパートを楽器で演奏するのでなく、歌うのです。この練習をすべての楽器で音合わせをする前に毎回していました。

他のオケがこの練習法をしているのかは分かりませんが、当時の指揮者が「歌で音程を取れなければ楽器でも音程を取ることはできない!」という方針で、よくメトロノームをかけながらアカペラで『スラブ行進曲』を演奏(合唱?)していました。

楽器で演奏してももちろん爽快な気分ですが、合唱もなかなか味がありました。音痴では自分の演奏する楽器の音程も分からないので、歌の上手さは楽器の演奏とも関係があったのかも知れません。

まとめ

チャイコフスキーはリズムの天才と呼ばれましたが、それと同時に音を操る天才でもあったと思います。ロマンチックな旋律をしっとりと奏でたと思ったら、勇ましく重厚な音色でアクセントをつけたり。音の上昇や下降に関しても変幻自在で、メロディーの発展の仕方はチャイコフスキーにしかできないオリジナリティーの溢れるものだったと思います。

チャイコフスキーは繊細な心の持ち主で孤児や同性愛者、動植物にまで理解を示し心を寄せる優しい人物だったと言います。最期は母親と同じコレラに感染して50代でその生涯を閉じました。

彼は亡くなるとき、どんなことを想ったのでしょうか?「ウラ―!」「ウラ―!」という歓声を思い出したりしたのでしょうか?そう、この「ウラ―!」は「万歳!」という意味です。スラブ行進曲の初演で会場にいた観客たちは、民族の誇りを胸に「万歳!」という歓声と大きな拍手でチャイコフスキーを称賛しました。

その大きな拍手と歓声はチャイコフスキーの作曲人生の大きな支えとなったのかもしれません。このスラブ民族を称えた『スラブ行進曲』は後世にもこうして広く伝わるチャイコフスキーの人気の代表曲の一つとなりました。